【パトリック】帰化して日本代表を夢見る苦労人ストライカー

パトリック ヴァスコダガm 未分類

すでにJリーグではお馴染みのガンバ大阪のパトリックについてですが
日本に来る前はどのような選手だったのでしょうか?
あまりwikiにも出ていないので、過去のインタビュー映像や仲の良いブラジル人記者からきいたりして調べ見ました。

パトリック物語です!

生い立ち

本名:Anderson Patric Aguiar Oliveira
1987年10月26日生まれ
出身はブラジルのアマパー州です。北部にある超ド田舎の州です。

若い頃は地元で6年間、洗車場のオペレーターとして働いていました。
当時の日常を次のようなものだったそうです↓
夜間学校に通い、学校へ出るのは22時。そこから直接職場の洗車場へ行き明け方の3時まで仕事。寝るのは床やビリヤード台や段ボールの上で毛布もなし。翌朝は7時半に起きてパンをかじりながら自転車で練習に向かう。

また経済的にも決して余裕があった訳でなく、ある時は近所の草がボウボウの家を見つけて、除草のアルバイトを持ち掛けていたそうです。

初めてのプロ契約

プロサッカー選手になったきっかけについて
União e Garraという町クラブに所属しており、地元のU20リーグでプレーしていました。
当時の恩師がたまたまMacapá Esporte Clubeという地元のプロサッカーチームの監督に就任した事で、たまたま人数が足りなかったという理由で、パトリックが紅白戦に連れて行かれました。
その紅白戦で2ゴールを決め、アイツは誰だ?とたちまち注目を浴び、そのままプロ契約をしたのだそうです。

ブラジル国内のいくつものクラブを渡り歩く

ガンバ大阪のオフィシャルサイトを見ると、パトリックのキャリアはこのように書かれております↓

パイサンドゥSC→CAヴィラ・リカ→サンタ・クルズFC→サルグエイロAC→ADRCイカザ→デモクラタFC→ヴェラ・クルズFC→SERサンジョゼ→アメリカーノFC→ミストEC→ヴァスコ・ダ・ガマ→ヴィラ・ノヴァFC→アトレチコ・ゴイアニエンセ(以上、すべてブラジル)→川崎フロンターレ→ヴァンフォーレ甲府→フォルトレーザ(ブラジル)→ガンバ大阪→サルグエイロAC(ブラジル)→サンフレッチェ広島

初めて日本の川崎フロンターレに来るまでに、実に13ものクラブを渡り歩いております。実際はもっと多いはずです。

なぜこれほどまでに多いのか?
日本ではあまり考えにくいですが、それぞれのチームでたった3カ月という短期契約しか結べなかったのだそうです。
インタビューでこのように語っておりました。

当初はとても大変でした。私はアマパー州出身なのですが、ここでは選手がチャンスを掴む事はとても難しいのです。スカウトもわざわざここまで選手を視察しに来ませんからね。しかし神様のおかげで、私は故郷を出て、ブラジル国内の様々な地方のクラブでプレーする事ができました。

1つのクラブに3カ月在籍し、すぐに州のリーグ戦は終わってしまいます。そうしてすぐに次のクラブへ移籍しますが、1年の長期契約をしたことはありませんでした。
一番長く居たのはヴァスコ・ダ・ガマで2010年~2011年まで在籍しましたが、試合に出るチャンスはあまりありませんでした。最も活躍できたのはセリエAでプレーしたアトレティコGOや、チーム得点王だったヴィラ・ノヴァですね。まあつまり私のブラジルでのキャリアは、3カ月ごとに次々と違うクラブに移籍するといった非常に大変なものだったのです。

ヴァスコ・ダ・ガマ時代のパトリック↓
パトリック ヴァスコダガm

 

ヴィラ・ノヴァ時代のパトリックのプレー
VSゴイアスとの試合でハットトリック

日本へ来るきっかけ

日本に来るきっかけとなったのは、ブラジル人FWを探していた日本のスカウティングの目に留まった事でした。
以下インタビュー引用になります。

日本から始めてオファーを貰ったのは、セリエAのアトレティコGOでプレーしていた時でした。日本のスカウトたちはブラジル人FWを探していて、第一希望はフラメンゴのエルナーネでした。しかし彼はオファーを断ったのです。そこで彼らは求めていたタイプの選手を探す為に私にまで白羽の矢が立ったのです。ネイマールがいたサントスとの試合を観に来て、そこで私は活躍し注目されました。海外でプレーするのは夢でした。私はいつだって、もし海外でプレーをするチャンスがあればもう戻ってこないだろう、と言っていました。

1年契約が残っており他のJ1のクラブへレンタル移籍しました。その後バカンスでブラジルへ戻り、3~4カ月家で過ごし、ブラジルではプレーしたくないと思っていた時にガンバ大阪からのオファーを貰ったのです。当時チームは降格の危機にあったところにチームに加入しました。まさにチームの欠けた部分を補うべく活躍することができました。6カ月で3冠を達成。これにより国やクラブによる私の評価はとても高まったのです。ガンバでは3年間プレーし5つのタイトルを獲得し、9度もファイナルの場面まで行く事もあり、私のキャリアの中で最も輝いていた時期の一つです。

将来は帰化して日本代表に

日本では、川崎フロンターレ、ヴァンフォーレ甲府、サンフレッチェ広島、ガンバ大阪と4つのクラブを渡り歩き、延べ8年間日本で生活をしています。
将来帰化して日本代表になりたい!母国のメディアにもそのように語っています。

パトリック 帰化 パトリック 帰化2 パトリック 帰化3 パトリック 帰化4
帰化する条件の一つに5年間居住する事がありますが、残念ながらパトリックは2016年に一度、ケガの治療の為にブラジルへ帰国した事があり、それによりカウントがゼロになってしましました。
もしケガがなければ、20ゴール量産し絶好調だった2018にロシアW杯に出場できただろう、と語っています。

人種差別事件

2015年にチャンピオンシップの準決勝で浦和レッズVSガンバ大阪の試合が行われました。
この試合ガンバ大阪は3-1で勝利し浦和レッズを下しました。
試合直後にパトリックのツイッターに対して人種差別的な書き込みがなされる、と言う事件がありました。

準決勝で浦和を破った試合の直後、バスに乗ってTwitterに投稿された”死ね黒人野郎”という日本語のメッセージを見ました。
一部のサポーターから人種差別を受けた時、私には国に対して報復や批判をすることができたでしょう。しかし自分の息子の写真を公開し、その人を許す事にしました。私が会いに行くと、それは18歳の少年でした。東京で彼と彼の両親に会いましたが、彼の両親はただ泣きながら謝罪していましたね。こうして私は多くの日本国民のみなさんに支えられましたが、非常に困難な時期でした。

報道では少年が通う学校を通じて、パトリック本人に謝罪の意が伝えられたとありましたが
本人と対面しきちんと謝罪を受けた事を明かしています。

家族について

パトリック 奥さん
奥さんのソニア・オリベイラ(Sônia Oliveira)さんとは2007年に結婚しています。
ソニアさんはパトリックと同じく北部のパラ州出身で、知り合った時はパトリックがサッカー選手という事は知らなかったそうです。

ちなみに奥さんは現在Youtuberをやっておりますが、一時期は治療法もない難病にかかり命の危険にさらされており、パトリック一家はとても大変な時期を過ごしていました。

詳しくはこちら↓

またパトリックとソニアさんの間にはフェリペくんという息子があります。
息子もガンバ大阪の下部組織でプレーしています。たびたびパトリックのSNSにも登場しますね。

 

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