日系ブラジル人にはちょっと詳しいバモスアオブラジルです。
今回は日本サッカー評論家のセルジオ越後さんについて徹底的に調べてみましたのでご紹介したいと思います。
セルジオ越後ってあんなに偉そうにしてるけど一体何者なの?
と思っている方もいらっしゃるでしょう。実はとてつもなくすごい人なのですよ^ ^
生い立ち
セルジオ越後さんは 1945年7月28日にブラジルのサンパウロで生まれました。
熊本生まれの母親と姫路出身の父親がブラジルへ移住し、現地で結婚して生まれたので日系二世という事になります。
父親はブラジルで銀行員として仕事をされていたそうです。
セルジオ越後さんはとても流暢に日本語を話します。
それもそのはず。両親が日本人なんだから、ブラジルで育ったけれども家の中では日本語を話していたんでしょ?
と思いきや、実は来日当初はあまり日本語がわからなかったそうです。
現役時代
辛口評論家で有名なセルジオ越後さん。
そのサッカーの実力はいかほどだったのでしょうか?
セルジオ越後さんの現役時代を調査してみました。
ブラジル時代
ブラジルで生まれ育ったセルジオは例外なく、子供の頃からサッカーに興じます。
そして自然の流れで17歳の時にコリンチャンスのユースのテストを受け一発合格しました!
この時の入団テストにはちょっとしたエピソードがあって
テストの時にMFをやりたいという選手はたくさんいたそうです。
セルジオも本来MFの選手でしたが、あまりの希望者の多さに仕方なく右ウィングを志望しました。
ところがそれが幸いしました。
なんと右ウィングの希望者はたった4人しかおらず、他のテスト生たちが5分ごとに交代させられる中、20分もプレーをすることができたそうです。
コリンチャンスのユースチームに入団したセルジオは、翌年18歳の時にプロ契約も果たします。
当時ユースからプロへ昇格できたのは、セルジオとリベリーノを含めて4人だけでした。
リベリーノとは元ブラジル代表で3回のW杯に出場し、清水エスパルスの監督も務めたことのあるレジェンド級のすごい選手です。
このトップチーム昇格にもちょっとしたエピソードがあって
なんとセルジオは当時サントスからも誘いを受けていました。
たまたま草サッカーに助っ人として出場していたところを、偶然サントス2軍の監督が見ていてスカウトされたのです。
もしサントスに入団したら、学費、車、マンションとチームが全て用意してくれる。
おまけにちょうどこの時父親のサントス転勤も決まっており、セルジオにとってまたとないチャンスでした。
しかしながら、いち早くこの噂を聞きつけたコリンチャンスが、あのサントスも欲しがるくらいすごい選手なんだと、いち早くセルジオとプロ契約を結んでしまったのです。
(ちなみにセルジオ越後は日系人として初のプロサッカー選手と言われていますが、どうも1951~1952年にTotio Uedaという日系人がコリンチャンスに居たという記録を見つけました)
セルジオはコリンチャンスでは右ウィングとして活躍し、当時の”Almanaque do Corinthians”という記録によれば、11試合に出場(7勝4分0敗 ノーゴール)の成績だったとか。(13試合という説もあり)
またコリンチャンスとプロ契約をする前の話ですが、東京五輪代表メンバー候補になったこともありました。
実はセルジオのメンバー入りはほぼ確定しており、これには日系人のセルジオをメンバーに入れておけば、大会で日本を味方にできるというCBR(ブラジルサッカー協会)の思惑があったようです。
しかしながら当時CBRとコリンチャンス会長との仲が悪化してしまい、結局五輪代表の話は破断になってしまったのだとか。
コリンチャンスではわずか1シーズンで契約解除となりましたが、
その後はミナスフェライス州のトレス・ポンターノ(Trespontano AC)や、サンパウロのブラガンチーノ(CA Bragantino)、パウリスタ(Paulista FC) などでプレーしました。
コリンチャンス時代(前列一番左がセルジオ越後で、前列右から2番目がリベリーノ)
トレス・ポンターノとはかなり田舎のチームみたいですが、当時リーグ無敗優勝をしたりしてかなり無双していたのだとか(後列一番右)
同じくトレス・ポンターノ時代(前列右から2番目)
こうしてサッカー選手として各地を渡り歩いていたある日、セルジオの心を揺るがすある出来事が起こりました。
クラブの遠征のバスの中で、チームの人からこのように言われたのです↓
サッカー選手は売春婦のようなもの。若い頃は可愛がられるけど30を超えたら簡単に捨てられる。チームは最後まで面倒をみない。その代わりに高い給料を払う。プロとはそういうものなんだ。お前も気を付けろよ。
この言葉を受け、”このままサッカーを続けていてもいいのだろうか?”と思い悩み、
なんと23歳という若さで一旦サッカー選手を引退します。
その後は鉄骨関係の会社で営業マンとして一般企業で働き始めます。
ブラジルの名門元コリンチャンスの肩書は凄まじく、当時は何の努力もせずにモノが売れるウハウハの時代だったと語っています。
どこの会社へ行っても喜んで受けれられる。サッカーの話をするだけで勝手にモノは売れるし、会社を訪問すれば必ず草サッカーへ誘われて、プレーを楽しみながら仕事も進む。
こんな生活を2年ほど続けたある日、セルジオの元に日本からオファーが舞い込みます。
現在の湘南ベルマーレの前身である、藤和不動産のサッカー部からの誘いでした。
藤和不動産は当時日本リーグ1部へ昇格したばかりのチームでした。
突然現れた日本行きのオファーに思い悩み、職場の社長に相談したところ、
お前は何を馬鹿な事を相談しているんだ。俺は息子を留学させる為に仕事をしてるんだぞ。それなのにお前はお金をもらって留学する?普通は語学はお金を払って学ぶものなんだぞ。迷っているなら代わりに俺の息子を行かせろ
と言われ、日本へ渡ることを決意したのでした。
日本時代
セルジオ越後は1971年に初来日し、栃木県の黒磯に本拠地を置く藤和不動産サッカー部でプレーする事となりました。
当時アマチュアだった日本サッカー界は、本場ブラジルから元プロが来ると持ち切りだったそうです。
日本に来たばかりの頃の貴重な写真
藤和不動産の成績はどうだったのか?
セルジオは71年シーズンの後半から加入して73年シーズンまで在籍しました↓
・1973年 4位/10チーム 9勝3分6敗
・1974年 8位/10チーム 5勝6分7敗
セルジオ個人の成績はというと、日本のwikiによるとトータルで40試合6ゴールとあります。
各シーズンの得点ランキングやアシストランキングには名はありませんでしたが、
73年にはベストイレブンに選ばれたようです。
という訳で日本リーグに置いては、それほど強烈なインパクトを残したという訳ではなかったようです。
引退後
チーム退団後は一度ブラジルへ帰国しますが、半年後にまた再来日をします。
今度はコカ・コーラとアディダスの後援を受け、日本サッカーのプロモートを行う為に日本へやってきたのです。
これがあの有名な”さわやかサッカー教室”の始まりでした。
さわやかサッカー教室とは、セルジオ越後が全国津々浦々を回り少年少女へのサッカーの指導普及にあたった、日本サッカー協会公認の活動で、これまで延べ1000回以上開催され、教え子は50万人以上にも及びます。(※ 後にアクエリアス・サッカークリニックに名前変更)
この功績が認められ、セルジオ越後は文部省から2006年生涯スポーツ功労者表彰を受賞しております。
後に日本代表となったこんな方たちも、かつてセルジオ越後さんのあおぞらサッカー教室に参加しておりました↓
三浦知良 / 中山雅史 / 井原正巳 / 岡野雅行 / 森島寛晃 / 中田英寿
北沢豪 / 前園真聖 / 武田修宏 / 川口能活 / 名波浩 / 柳沢敦 / 香川真司
人はセルジオ越後の事を偉そうだとか、辛口だとか言いますが
それには、こうした日本サッカー界に対して偉大な功績があって言えることなのです。
私は日本の50万人の子供をサッカーを好きにさせたという自負がある。
どの協会の、どの偉い人に対しても、これだけの実績をつくってからモノを言いいなさい
またキングカズも
セルジオさんくらいだね、僕が聞きたい事を教えてくれるのは。他の人は褒めて褒めてばかりだから、自分に何が足りないのが分からないよ
とコメントしています。
エラシコを発明したのは本当?
これはマジです!
エラシコの名手として有名なリベリーノ自身もインタビューで語っており、ブラジルでもそのように認識されています。
詳しくはこちらの記事で↓
ちなみにセルジオ越後がエラシコの創始者という事について、息子のマウリシオさんがこのように語っております↓
父はエラシコを発明した人と言われるのがあまり好きではなかったようですが、こうして周りが言って下さるのを聴くと嬉しいですね。
私生活
私生活についてはあまり情報がありません。一つわかったのは
セルジオさんは今までにどうやら2度結婚されて、4人の子供がいらっしゃるようです。
最初の奥さんとの間にできた子供にマウリシオさんとミゲルさんがおり、何れもブラジル在住です。
そして2回目の結婚でモトキさんとユイさんというお子さんがいらっしゃいます。
おそらく来日してから結婚再婚されたのだと思います。
ちなみにユイさんはエチゴ由衣という名前で一時期日本でも芸能活動をされておりました。
という訳で、セルジオ越後の凄さが理解頂けたでしょうか?
セルジオさんがエラシコをリベリーノへ伝授していなければ、ロナウジーニョも習得しなかったかもしれませんし、
あおそらサッカー教室を開催していなければ、日本もW杯に出場するのがもう10年遅くなっていたかもしれませんね。
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