三浦知良の父親の納谷宣雄
この男は単にスーパースターを育て上げた父親ではなく、実はこの人なくして今の日本サッカーは存在しなかったと言っても過言ではない程、日本サッカーに貢献した人物でした。
実際の納谷宣雄は逮捕歴がある為に、世間からはグレーなイメージで見られがちですが、実際はどんな人物なのか?詳しくご紹介したいと思います。
生い立ち
複雑な家庭環境
1941年、父・大石鵜一郎と母・初子の次男として静岡市に生まれました。
実家は静岡市葵区茶町1丁目に”丸一”という茶問屋を営んでおり、比較的裕福な家でありましたが
父親は前妻との間に4人の子供がおり、複雑な家庭環境の元育ちました。
学生時代
カズと同じく城内小学校(現:静岡市立葵小学校)と城内中学校を卒業しています。
小学校にはサッカー部がなかったので、本格的にサッカーを始めたのは中学校からになります。
高校は静岡高校に進学しましたが、そこでは1年生から中盤のレギュラーとして活躍していたそうです。
しかし選手権に出場することはできませんでした。
結婚
在学中に両親が離婚。苗字が母親の再婚相手の姓である納谷へと変わりました。
高校卒業後は当時交際していた三浦由子さん(カズの実母)の実家が経営していた三興紙器という化粧品会社に就職します。
20歳の時に由子さんと結婚し、会社のサッカー部にてサッカーを続けておりました。
しかし会社は数年後に会社を退社
その後、母親の再婚相手である納谷和雄が経営していた、静岡市七間町にある男性洋品店を引き継ぐことになりました。
そのお店を全面的に改装し、日本で初めてのサッカー専門ショップ”ゴール”をオープンさせます。
ブラジルへ移住
2人の子供、泰年、知良を育てながら様々な事業を手掛ける中、2度目の逮捕をきっかけに生活の基盤をブラジルへと移しました。
環境を変えなければならない。どうせ行くのであればサッカーの盛んな国がいい
移住先にブラジルを選択したのにはそのような理由がありました。
一文無しから始まったブラジル生活ですが、異国の地でもその商才を発揮し
生活の基盤をつくり、財を成し、人脈を築き、
地球の裏側へ呼び寄せた実の息子を一流のサッカー選手に育て上げると同時に、自身も成功者として成り上りました。
カズがCRBというクラブでプレーしていた頃、金持ちの父親をしてテレビで紹介される↓
日本へ帰国
ブラジルでサッカーと共に10数年を過ごしてきましたが、ビジネスの衰退と自身の健康の理由で日本への帰国を決意します。
91年10月のある日、街を歩いていると突然血を吐きその場に倒れました。
原因は肝硬変による静脈瘤破裂でした。
危篤状態に陥り、回復する見込みは10%と言われるも5日後に目を覚ましました。
その後は世界的な名医を頼り、肝臓移植の為アメリカへ渡ります。
10時間にも大手術を経た後に余命は3,4年と告げられるも現在もご健在です。
3度の逮捕
納谷はこれまでに3度の逮捕歴があり、うち2度は実刑判決を受けています。
一度目の逮捕 覚せい剤取締法違反
1度目の逮捕は1976年、覚せい剤取締法違反により逮捕されました。
岩手県盛岡の暴力団が覚せい剤使用で捕まり、本人の自供により納谷の関与容疑が浮上。
覚せい剤30グラムを60万円で売買したとされております。
この事は”サッカー交流を食い物に”という見出しで、当時の4月7日の静岡新聞に大々的に報道されました。
納谷は覚せい剤入手ルートは韓国だったとされていれています。
当時韓国専門の旅行代理店事業を手掛けており、サッカー少年団の遠征に添乗員として同行し何度も韓国へ渡っていました。
警察の調べによると、韓国へサッカーボールを50~100個買い付ける注文を出し、ボールの中に覚せい剤を忍び込ませて空輸した可能性があるとみていたそうです。
この逮捕により納谷は懲役1年6カ月、執行猶予4年の判決を受けました。
二度目の逮捕 麻薬取締法違反
2度目の逮捕は1978年7月8日、今度は麻薬取締法違反でした。
事件の詳細は不明ですが、この逮捕によりまた懲役1年10カ月の実刑判決を受けます。
ちょうどこの頃に妻・由子との離婚が成立し、カズもヤスも納谷姓から三浦姓へと変わりました。
ヤスはこの時にジュニアの日本代表に選ばれ、日の丸の国旗と一緒に映った写真を刑務所にいる父へ送ってたそうです。
三度目の逮捕 外為法違反
1989年4月20日、ブラジルのグアルーリョス空港で外為法違反により3度目の逮捕となります。
ブラジルの外貨の持ち出しは4000ドルまでと決められておりましたが、それを超える金額を国外へ持ち出そうとしたことによるものです。
当時ブラジルへのサッカー留学を斡旋するビジネスを手掛けていた本人による説明は以下の通り。
外為法でパクられた。留学生が日本で払うべきの留学費用をブラジルに持って来ちゃった。そういうのが何人もいて全部で500万円ぐらいたまっていた。それを税関の人間に見つかってしまい、半分寄こせって言ってきたんだ。あの国は捕まっても賄賂を渡せばなんとかなる。でも、日本でも入っていたからブタ箱なんてどうってことはない。行くならば行ってやらぁって言ったら本当に連れて行かれたよ」
ザ・キングファーザーより引用
2年に及ぶ裁判の末、この件は無罪となりましたが
これにかかった弁護士の費用や賄賂などにより、結局合計500万円かかったという。
商才
納谷は高校を卒業した後は企業に勤めていましたが
その後は実に様々な事業に手をかけていました。
サッカー映画自主上映ビジネス
1966年に”世界選手権を観戦するツアー”に参加しました。
これはワールドカップを見るツアーで、納谷は66年のW杯イングランド大会を現地で観戦しています。
ベッケンバウアーやボビーチャールトンらのプレーを生で観戦
そしてこの大会として”Goal! WORLD CUP”(邦題は”ゴール サッカー1966 世界選手権戦”)という記録映画が製作されましたが
きっとこれを見れば日本人はもっとサッカーが好きになるはずだ!と思い立ち
なんと映画のフィルムを借りてきて、市の施設や映画館を借りて自主上映を企画実行しました。
さらには翌70年大会でも現地を訪れ、当時出回ったばかりの8mmビデオにて試合を撮影し、その後静岡各地でこれも上映しています。
サッカー専門店経営
前出の通り義理の父親が経営していた店を引き継ぎ、兄弟と共に経営しておりましたが、決して経営状況が良かった事はないようで、現在このお店はもうありません。
物販事業
今では当たり前となっておいますが、スタジアムでグッズの販売事業を始めたのは納谷とされています。
日本代表の試合の時にスタジアムでユニフォームやペナントを売る為に、本人が日本サッカー協会に掛け合ったそうです。
また79年から始まったトヨタカップでも物販権を得たとの事。
韓国サッカーボール製作事業
韓国は賃金が安く、且つ皮革産業が盛んであ事に目をつけ、サッカーボールをつくる事業を始めました。
しかし使用している間にボールの形が変形してしまうなど品質に問題があり、やがて巨額な資金を武器にした大手メーカーの台頭により撤退することになります。
ナイトクラブを経営
ホステスが30人ほど在籍するキャバレートゥモローを経営していました。
どういうルートなのか、ロサンゼルスからインディオと白人とメキシコ人の女性を3人連れて働かせておりました。
当時としては珍しかった外国人女性を目当てに来るお客さんが連日行列をなしそれなりに繁盛していたようです。
ブラジル輸入ビジネス
ブラジルへ渡ったばかりの頃です。
当時サンパウロに住む日本人が情報に飢えている事を察すると、日本で歌番組や時代劇を録画させそれを空港関係者に持たせブラジルへ持ち込みました。
さらには周囲の様々な知人の御用聞きをし、日本の食材や日用品など調達していたそうです。
テレビ東京にブラジルサッカーの試合映像を販売
当時日本にはダイヤモンドサッカーという唯一のサッカー番組がありました。
ダイヤモンドサッカーでは欧州のサッカー紹介がほとんどであり、南米のサッカーはほとんど取り上げられませんでした。
そこで同番組の視聴者でもあった納谷が番組の担当に掛け合いました。
当時の番組の担当はなんと納谷の高校時代の同級生でした。
納谷はブラジルのテレビ局と交渉して、1試合2000ドルで放映権を買う事に成功。
30キロもあるフィルムを担いで飛行機で持っち帰ったと言います。
実際ダイヤモンドサッカーにおいて、サンパウロVSフォルタレーザ、フルミネンセVSバスコ、サンパウロVSパルメイラスの放送された事がありましたが、これは納谷がブラジルから持ち込んだものなのでした。
納谷はこれにより得た収入によりブラジルで車を買う事ができたそうです。
ブラジルサッカー留学斡旋ビジネス
カズやヤスがブラジル留学での評判が広まると、ブラジルで受け入れてくれるクラブを紹介してくれという問い合わせが増えてきました。
そこでサッカーの留学斡旋ビジネスを開始します。
ピークはカズがヴェルディで活躍していた頃で、留学生は年間200人を超える程でした。
留学生の中にはなんと元俳優の押尾学もいたそうです。
留学斡旋ビジネスでは、事務所の壁が爆破され金庫ごと盗まれたり、番犬のシェパードが毒殺されたり、サッカー留学生から告発記事が掲載されたりといった様々なトラブルにも見舞わられましたが
留学生の減少に伴い、ついには廃業することになりました。
留学生が減った理由は、Jの下部組織が充実しわざわざブラジルへ留学しなくてもよくなった事、ブラジルのビザ制度が変更され1年しか滞在できなくなったこと、日本で募集を担当していた兄弟との関係が悪化したこと、日本経済が不況に入った事などがありました。
サッカー代理人業
東海第一高校へ編入し選手権決勝で見事なバナナシュートを決めたサントス・アデミールを日本へ送ったのは納谷です。
それをきっかけに日本からブラジル留学の斡旋業とは逆に、優れたブラジル人選手を日本へ送る代理人業を開始します。
87年にはジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機へアンドレとアジウソンという選手を紹介しました。
そしてそのアンドレの活躍の甲斐あり、なんとヤマハは87-88シーズンで初優勝を果たしたのです。
アンドレはフラメンゴ等でプレーし84年ロサンゼルス五輪にも出場するほどの選手でしたが
キンゼデジャウーでカズとチームメイトであったのがきっかけで納谷にスカウトされたのでした。
ミサンガ事業
Jリーグ開幕当初のミサンガが日本中で爆発的に流行しました
このブームの火付け役となったのも納谷です。
ブラジルにはボンフィンという紙でできたリボンがよくお土産で売られておりますが、これより見栄えの良いミサンガを日本に持ち込んだのです。
特にミサンガにサッカークラブの名前を入れたものが爆発的にヒット
ちなみにミサンガのブラジルでの製作費は30円程度で、これを日本で800円で販売していました。
さぞボロ儲けしていた事でしょう
寿司屋を経営
ブラジルから帰国後に静岡市に七八(ななはち)という寿司屋をオープン
残念ながらこちらのお店も現在は閉店となっているようです↓
ちなみにカズのお母さんもその昔もんじゃ焼き屋さんを経営しておりました
人柄とエピソード
身なりにはきちんと こだわりのスタイル
納谷はお金がない時にも身なりには気を使い、フルオーダーのスーツを着ていたと言います。
石原裕次郎に憧れていたそうです。
カズがその昔田原俊彦をイメージしていたように、自身のスタイルに拘りがあるのは、この辺りの父親の教えによるものなのかもしれません。
貧困少年を救い人生を変えた
日本へ渡り東海第一高校へ編入したサントス・アデミールはカズのチームメイトでした。
彼は貧困のあまり食べるものがなく、練習中に空腹で倒れるほど困窮していました。
それを見かねた納谷は彼ををリベルダージへ連れていき日本食をたらふく食べさせ
更にサントスの実家へも訪れて、家族に食糧などを送っています。
サントスはこの時の事を一生忘れることなく、今でも三浦家には感謝していると後のインタビューで語っています。
豪快に振る舞い成りあがる
これまで数々の事業を手掛け、その中にはビジネスとして大成功したものもあれば、そうでないものもありましたが
納谷は羽振りが良い時は、稼い分だけ豪遊し周囲に還元していたと言います。
ある時は家族をハワイへ連れて言ったり、またある時には知人やその家族ら何十人もをアメリカ、韓国、日本へ招待したりもしていたそうです。
その気前の良さはサッカー関係者の間で有名となり、とうとうサンパウロサッカー協会の国際担当理事に就任するまで上り詰めました。
後にも先にも、日本人でサッカー協会の理事になったのは納谷が初めてです。
留置所で殺し屋を味方につける
3度目の逮捕の時に数日間、空港近くの留置所での生活を経験しました。
その留置所で同室だった男はアルゼンチン人の殺し屋でした。
納谷は俺は日本で2人殺して10年懲役へ入っていた事があると吹聴し、留置所の中で一目おかれる存在になりました。
留置所内で親しくなったアルゼンチン人の殺し屋は出所後にも付き合いがあり、納谷は自分のアパートへ泊めたり、リベルダージの日本食へ連れて行ったりと世話をしました。
すると殺し屋は
もし殺したい奴があればいつでも連絡してくれ、お前の頼みなら200ドルでやってやるから
と言ったといいます。
以来納谷は、自分を敵に回すと殺し屋がやってくるぞ!と自慢げに話して回るようになったと言います。
3人の路上強盗を返り討ち
高校時代から喧嘩に明け暮れていた納谷は腕っぷしも強かった。
ブラジルにいた頃、3人の路上強盗に財布を奪われそうになりますが、それを見事に全員返り討ちにしています。
ブラジルへ行く時は危ない目にあっても絶対に抵抗するなと教えられます。なぜなら相手は武器を持っている可能性が高く、抵抗すれば命の保証はないからです。おとなしくしていれば命だけは助かります。
というのがブラジルを知る者の間の常識ではありますが、納谷は3人に対し抵抗した上に蹴りを食らわせノックダウンさせたのでした。
空手初段の腕前だそうです。
裏技によりブラジルの永住権を獲得
納谷がブラジルの永住権獲得したのは、ブラジルでプレーしていたカズが試合に出やすいようにする為だと言われています。親が永住権を獲得すれば、その子供も容易に永住権を獲得することが出来ます。
どのような手段で永住権を獲得するのか悩んでいたところ
政府関係者にコネクションのある弁護士からあるアドバイスを受けました。
それはサーカス団員の演出家という特殊技能者として就労ビザを習得し、その後に永住権を申請するというものでした。
この為に納谷はわざわざブラジリアにあるサーカス団を訪れ、形だけの契約を結んだといいます。
ブラジルの永住権は数年に一度更新しなければならないので、カズ同様に納谷も未だ定期的にブラジルを訪れているようです。
W杯最終予選 前夜審判買収
W杯最終予選のイラク戦前夜、現地を訪れていた納谷はホテルで偶然エリアス・ザクーと会いました。
エリアス・ザクーとはレバノン系ブラジル人で伝説の代理人と言われている男でした。
中東系に非常に強いコネクションを持ち、FIFAの第7代会長のジョアン・アベランジェを当選させたのは、彼がアラブ諸国の支持を取り付けたお陰であると言われています。
そのザクーが納谷にある話を持ち掛けました。
日本は勝ちたくないかい?この大会の審判関係者を知っている。非常に親しい人間だ。日本が出場権を得たいのならそいつに声をかければいい
ザ・キングファーザーより引用
納谷はすぐにこの話を日本サッカー協会へ持ち掛けましたが、協会の答えは”我々はフェアープレイでやる”という返答だったそうです。
もしもあの時に金を払っておけば、ドーハの悲劇となったあの試合でコーナーキックの前に試合終了の笛がふかれていたかもしれません。
如何でしょうか?
今まで黒い印象持たれがちであったカズの実父納谷のイメージですが、彼の半生がいかに豪快で、類まれない商才があり、また時には弱者に手を差し伸べるおおらかな心の持ち主である事がわかって頂けたと思います。
またカズがブラジルで成功を収める事ができたのは、試合に出場できるチームを探したりサッカーに専念できる環境作りに奔走した納谷の支えがあったからこそでした。
そして納谷がブラジルとのコネクションを作らなければ、Jリーグ発足はあと10年遅れていたかもしれません。
納谷宣雄は間違いなく日本サッカー界における功労者の一人と言えます。
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