先日紹介したビスマルクの現在、に引き続き本日は元柏レイソルのカレカの現在を紹介しようと思います。
カレカは1993年に来日し1996年まで柏レイソルでプレーをしました。
当時サッカー黎明期であった日本サッカーにホペイロをもたらしたり、選手にプロ意識を植え付けたりと徹底的に改革を実施し、日本サッカーの発展に大きく寄与した功労者の一人です。
そしてこちらがカレカの現在の姿になります↓
引退後増量してしまったビスマルクとは対照的に、ややほっそりとした印象です。
むしろ渋さが漂っていて、いい感じにダンディーになっています。
この画像は2019年にサンパウロで開かれた元Jリーガーらによるトークショーでの姿ですが、年齢は59歳ですね。
トークショーでのコメントと動画は下に掲載しておきます↓
まずカレカについて、日本に来る前のキャリアなどについて詳しく解説します。
本名 | アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ (Antônio de Oliveira Filho) |
生年月日 | 1960年10月5日 |
出身地 | Araraquara(サンパウロ) |
身長 | 182cm |
カレカは本名でなくあだ名です。
カレカ(careca)とはポルトガル語で”ハゲ”という意味で、よく髪の毛のない人がこのように呼ばれることがありますが、カレカの場合は禿げていたからではなく
子供時代にブラジルで有名なカレキーニャ(Carequinha)というピエロの恰好をしたコメディアンの歌をよく唄っていたからそう呼ばれるようになったそうです。
1960年、カレカはサンパウロ州の田舎町アララクアラ(Araraquara)に生まれサッカーを始めます。
アララクアラとはサンパウロ州の内陸に位置する人口23万人の街です。
そこでの才能がたちまちサンパウロ州に広がると、同州名門クラブであるグアラニーへ入団することになります。
そしてそこで1978年にトップチームに昇格しプロデビューしました。
ちなみにカレカがデビューしたその年にグアラニーはブラジルの国内リーグで優勝し、カレカも優勝決定弾を決めています。
グアラニーでは通算252試合109ゴールという結果を残し、このゴール記録はクラブ歴代3位です。彼は今でもクラブの英雄で、引退後はグアラニーの役員も務めています。
余談ですが、元浦和レッズのファブリシオも一時期グアラニーに所属していた事があり、その才能を認められたファブリシオはカレカに可愛がられていたようです。詳しくはこちら
グアラニーでの活躍が認められると、83年にセルジーニョ・シュラッパの後釜としてサンパウロへ移籍しました。
カレカの名が世界に広まったのは86年のメキシコワールドカップでした。
ブラジルは準決勝でフランスに敗れ敗退しましたが、カレカはこの大会で5ゴールをあげ、得点王だったリネカーに1ゴール差までせまる活躍をみせたのです。
更に同年86年はサンパウロで国内リーグ制覇も果たし、25ゴールを決め、なんと自身も得点王と年間MVPも手にしました。
サンパウロ在籍時にも191試合115ゴールという輝かしい成績を残し、1987年に今度はイタリアのナポリへ移籍することになります。
当時はチームにあのディエゴ・マラドーナが在籍しており、ヨーロッパ最強、まさに全盛期でした。
後日談ですが、実はナポリはカレカがデビューして間もなかった79年から目をつけており、獲得を計画していたそうです。
強豪ナポリには1987–1993まで在籍し、その間UEFAカップ獲得やスクデットも経験し、221試合95ゴールの成績を残しました。
そんな世界のスーパースターだったカレカがなぜ日本に!?
その辺りをトークショーにて、日本に来るきっかけや、来日してからのエピソードが語られていたので紹介します↓
私と日本との関係は83年からです。グアラニーからサンパウロへ移籍した後です。サンパウロでは水島武蔵と知り合いました。彼はあの有名なミズノのモレリアのスパイクの開発に携わっていたのです。モレリアは今でも私の中で最高のスパイクです。86年メキシコ大会モデルを含む、すべてのシリーズを使用してきました。初めてミズノのスパイクを履いてワールドカップへ出場しました。85年にはミズノのプロモーションの為チームで日本を訪れました。そこで日本人との関わりがより深くなったのです。日本での経験にはとても感謝しております。
ナポリとの契約が終わっていてカンピーナスへ戻り、W杯予選を戦っていました。そこで日本の日立グループとの初めてのコンタクトがありました。後の柏レイソルとなるチームの前身だね。そしてオファーを承諾したのです。当時は私は33歳で、チームを立て直しに行きました。向こうにはアシスタントも何もなくて、自分で練習着を洗ったり、スパイクを磨いたりする必要がありました。そこでまずはサンパウロで用具係をやっていたJairinhoを呼び寄せました。彼には仕事を学ばせる為に日本人をつけたんだ。我々は日本に遺産や知恵を残さなければなりませんでした。
ナポリを退団するという事は挑戦でした。ナポリのゲームには平均していつも76000人~78000人ものサポータが集まります。柏に入った当初は平均して400人くらいの観客しかいなかったと思います。しかし我々はそこからファンを獲得していったのです。J2では平均して7000人集まるようになりました。徐々に上へあがっていき、やがてはJ1へ昇格を果たし、今日柏レイソルは世界中で知られるクラブとなりました。私はこれに関われたことにただ感謝するのみです。私の子供たちは東京でアメリカンスクールに通っていました。公立の学校に通っていたこともあります。日本語は難しいですが彼らは子供でしたので、、、、、今でも少し日本語を話すことができます。残念ながら私は通訳がいたので勉強をサボってほとんど日本語を話すことはできませんが、選手として日本でプレーすることができたという自分のキャリアをとても嬉しく思っています。
私が来日した当時、一番ゲームに影響を与えていたのはピッチの中にいた8人の日本人選手です。チームには5人の助っ人外国人選手がおりましたが、プレーできるのは3人のみでした。彼らが我々外国人助っ人を必要としている以上に、我々が日本人選手らを必要としているという事をわからせるのは困難でした。素晴らしい事に、我々は彼らがそれだけの力があることを証明することが出来ました。なぜなら彼らは以前は目標を持っていなかったからです。もちろん国の代表の選手になる夢はもっていましたが、海外でプレーをするという目標はありませんでした。私は自宅に日本人の選手や家族たちを招きました。バーべーキューをしましたが、和牛は高かったのでブラジルのピカーニャを食べてました笑。今日では日本人は世界中でプレーをしています。我々が伝えたことを信じてくれた彼らの功績もあります。
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