【レッズを辞めた理由は?】浦和元通訳アレシャンドレ・バリについて 

元浦和通訳のアレシャンドレ Jリーグ

浦和レッズで長年通訳として活躍していたアレシャンドレ・バリさんのロングインタビュー記事があったので記事に書いてみました。

バリさんが日本へやってきた経緯、レッズを辞めた原因、知られざる裏の顔を紹介したいと思います。
元浦和通訳のアレシャンドレバリ
インスタグラムから写真を拝借しました。ビスマルク、ワシントンが映っています。

アレシャンドレ・バリさんは2001年~2007年頃まで浦和レッズの通訳を務めておりました。

バリさんは当時私がアルバイトをしていたレストランにもいつも入り浸っておりました。

そのバリさんは今何をしているか?

ブラジルへ帰国しなんと俳優業をしております。

実はバリさんは通訳をはじめる前から俳優を志していたのです。

そしてレッズを辞めたのも、通訳をする傍ら、俳優業を行っていたことをクラブに指摘された事が原因みたいです。

それでは、バリさんがどのようにして日本へやってきて浦和の通訳に就任したのかを書いていきます。

俳優を志すきっかけ

名前 Alexandre Bari
生年月日 1959年8月17日
出身 ブラジル サンパウロ

アレシャンドレ・バリはイタリア系ブラジル人としてサンパウロに生まれます。

バリの両親もサッカーやサッカーの審判をやっていた経験があり、一家は熱狂的なパルメイラスのファンでした。

そして、バリ自身も憧れのパルメイラスの下部組織に1978年~1979年に在籍。

右サイドバックとしてプレーしておりました。

しかしある日、ある選手からこう言われます。

何の為にサッカーやってるの?お前は男前なんだから写真に写る仕事とかやったらいいじゃん!モデルをやるべきだよ

これがバリが俳優業を志すきかっけとなりました。

しかしこれから俳優として食べていくのか?

まだ思い切り踏み出せない日々を送りますが、1980年代にAsa Branca: Um Sonho BrasileiroというブラジルのコメディドラマでPita役として出演を果たしました。

Asa Branca um sonho brasileiroのDVD

ちなみに奇遇にもあるサッカー選手のサクセスストーリーをナレーションする役だったそうです。

来日のきっかけ

そして俳優業を行う一方で、プロサッカー選手になりたいという気持ちも捨てきれずにおりました。

サンパウロ大学の体育科卒業した当時、ある日系ブラジル人の友人から、日本へのサッカー留学の話をもちかけられました。

この友人とはなんと、渋谷幕張高校の監督を務める宗像マルコス望さんでした。

闘莉王を日本へ連れてきたお方です。

【闘莉王を発掘した男】渋谷幕張高校サッカー部監督宗像マルコス
「だから日本サッカーはダメなんだ。ブラジルだったら・・・」 なんて話をブラジルに居た時関係者から嫌というほど聞かされていました 渋谷幕張高校サッカー部監督 宗像マルコス望氏もそれを唱える1人です 宗像マルコス望 1959年2月3日 サンパウ...

当時の日本は今と全然違っていたから、とても難しい決断だった。ブラジル人はほとんどいなかったからね。私の家族は反対していたが、私はためらいなく日本行きを決意したよ

実はバリは日本へ行く前にも、アメリカへ渡りましたがあまり成功できなかったという体験がありました。

そういった不安要素はあったものの、来日を決めたバリは東海大学でプレーすることになります。

日本へやってきて思った事は、日本人選手にブラジル人よりうまい奴が何人かいるという事が驚きだったと語っております。

来日当初は、日本食への順応と金欠に苦しみました。

ブラジルで見たこともないようなものがたくさん売っていた。買う事はできなかったが。そしてスポーツ用品店のショーウィンドウの前に立ち止まって眺めていると、自分はまるで物乞いのような気持ちになっていたよ。

バリは当初外国人差別にも苦しみました。

監督は味方してくれたが、私をさげ蔑むような目でみてくる選手が何人かいた。一番つらかったのは、何もない山の中での合宿の時だ。練習して、食べて寝るだけの生活。私はそこで誕生日を迎えただんた。母に電話した時に、何もしゃべる事ができなかった。受話器ごしでただひたすら泣いていた。電話しなければよかった。しかし寂しくて、その日は25歳の誕生日だったんだ。1984年8月17日は人生で最も悲しい一日だったね。

日本語習得の決意

そんな日本での生活に悪戦苦闘していたバリに転機が訪れます。

ある日練習で足首をひねり、数カ月間休養することになります。

このままじゃダメだ。この時にバリは、これを機に日本人を理解しようと日本の勉強を始めたのでした。

日本語教室へ通い、平日8時間、土曜日4時間レッスンを受けるという猛勉強開始しました。

テストで10点満点中、平均で9.6点をとったんだ。しかしクソったれと思ったね。なぜなら韓国人らは10点をとってたんだから!なぜ彼らは優秀なんだ?彼らにとって日本語はより簡単なんだ。ポルトガル語を話す人にとって日本語は難しすぎる。文法やフレーズの文末の言い回しとかね。例えば”ブラジル人だよ。私は”って言い方は普通だと思うかい?しかし一年間集中的に勉強して、日本語は使いこなせるようにになったよ

通訳としてのキャリアをスタート

結局この日本語習得への試みは、バリが思っていたよりもはるかに重要なものになりました。

やがてバリは東海大学を卒業すると、そのままトヨタ自動車の選手となりました。

そして数年後ある日、チームの通訳になってくれないか?と打診を受けたのです。

正直、当時の私のプレーあまりよくなかった。既に30歳だったし。チームのあらゆるポジションをやったが、どれもうまくいかなかったね。そんな時に通訳をやりたくないか?と話しがきたんだ。契約や外国人の監督選手の会話などのお手伝いをするとう内容で

当時は日本のサッカーを強くしよう!とジーコらの協力の下、多くのブラジル人が日本へ来日していた時代でした。

バリも来日したブラジル人が日本にフィットできるよう、生活の手助けとなる一役を担ったのです。

たぶん当時はサッカー通訳をやっている人は誰もいなかったと思うよ。プロの世界でもね。初めはほんと大変だった。言葉を訳すという事に慣れている我々にさえね。なぜなら人々がそれぞれの方針を立てるし、ウソもつく。そして通訳はその間に入るんだ。もし誰かがとんでもない事を言えば、通訳はいち早くそれを察し、やがて怒りを買うんだ。本当にストレスが溜まる仕事だよ。

中でもでも、トヨタの監督を務めていた、ジュリオ・エスピノーザ(Júlio Espinosa)は最もソリの合わない監督として挙げています。

ちなみにこの人はヴェルディで監督を務めたことのある、バウディール・エスピノーザのいとこです。

彼がトヨタの監督を引き受けた時、報酬は月収で税込み5000ドルの契約だったんだ。しかし、いざ契約となった時に、奴は税抜きの給料を要求していた、と言い出したんだ。私はクラブのフロント側について、彼と対立した。日本人はみんな間違いなく、あの事に疑問を持っていたと思うよ。バリは間違って通訳していたんじゃないか?。結局クラブは、間違っていたのは私だったと判断。エスピノーザってやつは本当にしたたかだよね?

そしてある日、バリとエスピノーザとの間に決定的な溝がまれてしまう事件が起こりました。

ある日、焼肉を食べている最中に、エスピノーザがバリに向かった放った皮肉の一言が原因でした。

バリには新しい靴下をあげよう。いつも穴だらけのを履いているからね(いつも誤訳ばかりしているからね)

これに対してバリは大激怒。

それじゃ、私は都合のいい時だけの通訳ってことかい?それなら何が間違いなのか言ってくれるかい?彼と仕事をするのは難しかった。エスピノーザの私と同様、欠陥だらけだったのさ。

一日中誰かの通訳をするという事は複雑だ。どんなにいい人と思っていても、1時間は疲弊する。日本では15人の監督と一緒に仕事をした。うち2人か3人は救いようがあった。しかし残りの人々からは学ぶ事は何もなかった。むしろ私の方が良い仕事をできる。最悪なのはブラジル人たち。彼らは通訳を信用しなかったんだ。アーセン・ベンゲル監督は素晴らしかった。あとカルロス・ケイロス監督もだ。彼らにはチームの方針に沿った別の通訳がいたのに、それを私と交代させる決断をしてくれたのだからね

浦和レッズでの通訳の日々

ベンゲル監督はかなりリスペクトしていたみたいですね。

そんなこんなでバリはグランパスを退団すると、浦和レッズの通訳に就任することになります。

そして通訳人生で一番最悪な体験の一つに、2001年浦和レッズでの出来事を挙げております。

2001年の1stステージを率いていた、ブラジル人監督チッタと真っ向から対立しました。

チッタは80年代フラメンゴで活躍した元サッカー選手。

彼はバリの通訳を心底信用していなかったそうです。

チッタは日本語の短い単語を理解できなかった。例えば誰かが”vamos vamos vamos”って言うだろ?私は一度だけ”行くぞ”と通訳するだけ。それをチッタはとても疑わしく思っていたんだ。私だけではない。他の通訳もそうだった。

チッタはさらに、バリが普段来ていたスーツの替わりに、クラブのジャージを着て来るよう要求したという

それ自体は別に構わない。いいか悪いかは別として、彼がチームのトップなのだから、逆らってもしかたない。

しかしその後彼は、チームの会議の後に新聞を読むのを止めろとか言い出したんだ。しかもそれらを全て直接言わずに伝言で伝えて来るんだよ。その後選手達とボールを蹴る事も禁じられた。私はチッタが何をしたいかはわかっていた。チッタは私の事が嫌いだったから、私をチームから追い出す言い訳を探していたんだよ。

そしてチッタはとうとうバリをクビにすることに成功。

チッタ失脚後はまたチームに復帰することになりますが、浦和でポストを失ったバリはこの頃友人を頼りにしていました。

当時エメルソン・シェイキの近所に住んでいた、トゥットの家に住まわせてもらったりして凌いでいたそうです。

バリにとって監督やチームとの関係は友好的ではなくても、選手との関係は常に良好なものでした。

この頃バリはブラジル人選手達に、日本人女性のナンパの仕方を教えていたそうです。

日本人の女性はちょろかった。もしあなたが外国人ならばイケる。それほど日本語を話す必要はない。ただ私は東洋人の体はあまり好きじゃなかった。やっぱブラジル人の方がよりセクシーだね

問題発言ですね。

バリから日本人のナンパ方法の指南を受けたのは、当時レッズにいた在籍していたエメルソン、エジムンド、ネネあたりでしょうか?

そしてこの手の話は、もちろん日本人選手も興味があったようです。

何人かの日本人選手は、女性器をポルトガル語でどう発音するかを教えると大変盛り上がっていた、と語っています。

誰ですかね?この手の話で盛り上がりそうな選手は。

俳優業を再開

この頃からバリは、遠征の際などを利用して俳優仲間とコンタクトをとり、モデルや広告などの仕事を再びやり始めるようになります。

問題はアーティストとしての収入は得られなかったことだ。溜まっていたギャラは全部使わなくてはならなかったんだ。日本にも外国人の仕事の範囲の制限があったからね。私がサムライ役を演じることはできなかったんだ。なんかブラジルでアーティストとして踏み出せなかった日々と状況が似ているなと思ったよ。

ある日バリはテレビドラマ出演のオファーを受けることになりました。

ヘンリーフォードが日本に進出してくる様を描いたドラマで、アントニオ・ファグンデス(Antnio Fagundes)とうブラジルの俳優と共演。

5話分を収録、毎週月曜日に放送されておりました(ドラマの名前までわからなかった)

皆がオンエアで私を見た。私の通訳以外の一面をもはや隠すことはできなくなっていた。実はテレビに出る前も、モデルの仕事などちょくちょくやっていたんだよ。しかしもうブラジルへ帰国することを決めていたんで、浦和レッズのフロントにテレビで見られてバレることも気にしないことにしたんだ

という訳で恐らく通訳業に専念しなかった事が浦和を辞めた原因のようです。

ブラジルに帰国したバリは、サンパウロで再びモデル活動を始めます。

しかしブラジルに戻っても、依然日本との関係は切れないようです。

帰国した時、ブラジルで日本食がブームになっていることを嬉しく想い、テレビ局に日本食のレシピを送ったりしました。

また2012年にクラブワールドカップでコリンチャンスが来日した際も、エメルソン・シェイキの通訳として同道しました。

しかし長期の通訳はもうコリゴリとのことです。

バリさんの脚には”成功”を意味する日本語のタトゥーが入っています。

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