「だから日本サッカーはダメなんだ。ブラジルだったら・・・」
なんて話をブラジルに居た時関係者から嫌というほど聞かされていました
渋谷幕張高校サッカー部監督 宗像マルコス望氏もそれを唱える1人です
宗像マルコス望
1959年2月3日 サンパウロ出身
父親が牧師として広島からブラジルへ移民
兄二人は日本で生まれたが、三男の本人だけがブラジルで生まれ育った
13歳の頃からサンパウロの下部組織でサッカー浸けの毎日を送る
サッカー浸けの毎日を送りながら、ブラジルで一番レベルの高いサンパウロ大学へ入学している(さすが日系人だ!)
当時はアマチュアとして日系人リーグ(AUSP)のモシダージでプレーしていた
ところが、勉強とサッカーの両立が難しくなってプロへあがるのを諦めかけていたころ
たまたま東洋工業(当時のサンフレッチェ)が日系ブラジル人を探していたので日本行の切符をえることができた
しかし日本の、走って蹴るだけの全く遊び心のないサッカーに適応できず、結局日本リーグに一試合も出場しないまま2年でチームを離れる
本人はこの時に”日本は永遠にワールドカップに出場できないだろうと思った”と語っている
退社後日本で体育の勉強をしようと失業保険で東海大学で2年間勉強
その後帰国して再びサンパウロ大学へ戻り教師の資格をとる
伯父さんの紹介で1985年渋谷幕張高校の教員として再来日を果たす
渋谷幕張高校は創立1983年なので、当時まだ創立2年目という新しい高校であり、そこで体育教師として採用された
今は全国屈指の強豪校だが、当初は素人集団の集まりだったそうだ
当初80人いたものの部員はほぼヤンキー
練習に来るのは僅か20人ほどだったという
宗像監督当時26歳
やがてスポーツ推薦枠が受け入れられ、ブラジルから留学生を連れてくるようになった
渋幕サッカー部は毎年夏にブラジル遠征を行っていて、その中で監督が日本へ連れてくる留学生をチョイスしている
ちなみに三都州アレサンドロも宗像マルコスが明徳義塾の関係者をブラジルへ連れて行き発掘している
6人目の留学生となった田中・マルクス・トゥーリオを初めてみた時
「初めて出会ったばかりの選手を統率していた。負けず嫌いだし、頭もいい。日本で成功すると思った」
と語っていた
ちなみにマルコス監督が選ぶ基準は主に3点
①中学を卒業しているか、②適応できそうか、③家族の理解があるか
だそう
当時16歳だったトゥーリオは日本語が全く理解できず、監督自らが毎日授業の合間を縫って日本語を教えていたという
言うことを聞かない生徒には体を張って、テクニックで黙らせるのだそうな
日本が誇るセンターバックを育て上げた功労者です
これからもブラジル流 futebol arteを若い世代にたたき込んで世に輩出して欲しいと思います
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