カタールW杯で活躍中のブラジル代表リシャルリソン
本名はリシャルリソン・デ・アンドラーデ
時に試合中に観客席へ向かい発煙筒を投げ返したり、FIFAの会長に向をハゲ呼ばわりをしたりと
そのエピソードには枚挙にいとまがない
ハングリー精神旺盛なストライカーはどのようにして形成されたのか?
今回はリシャルリソンの少年時代、ブラジルのルーツについて迫ってみました。
小さな町の低所得者層の出身
リシャルリソンの出身はエスピリットサント州にあるノーヴァ・ヴェネーシア(Nova Venécia)というところです。
人口5万人の小さな町で、そこの低所得者層のコミュニティで育ちました。
それから一時期トドス・オス・サントス(Todos os Santos)地区というところへ移りましたが、10歳の時に再びノーヴァ・ヴェネーシアへ移っています。
子供の頃はシャルリーニョと呼ばれていた
リシャルリソンという名前は本名ですが、子供の頃は短縮した形でシャルリーニョ(Charlinho)と呼ばれていました。
今でも親しい人たちはそのように呼ぶそうです。
リシャルリソンと呼ばれるようになったのは2013年に、Real Noroeste Capixabaというクラブの下部組織に入団してからです。
シャルリーニョと呼ばれていた頃↓
叔母の家に預けられ育つ
毎日ストリートでのサッカーに明け暮れていたリシャルリソン少年
ある日家族に「隣町にあるサッカークラブに通いたい」と告げます。
父親のアントニオさんは、息子の願いを叶えてあげるべく、自身の妹のアウジセイアさんの家へリシャルリソン預ける決意をしました。
アウジセイアおばさんは当時妊娠7カ月、他に3人の子育てをしていた身みも関わらず、アントニさんのこの申し出を快諾。
リシャルリソンの家は決して裕福ではありませんでしたが、砕石場のハンマー工として働いていた父親が一生懸命お金を工面して仕送りを送ってあげていたそうです。
リシャルリソンはアウジセイアおばさんの家に13歳まで住みました。
当時の家は取り壊されもうありませんが、住所はRua Fornazieri, no bairro do Rubiaです。
ストリートビューで見るとこんなところ↓
アウジセイア叔母さんとリシャルリソン少年↓
当時の生活
リシャルリソンが過ごしていた家の環境について
おばさんの家には4つの部屋があったものの、ほとんど物置などに使われており
一家は組み立て式の一つのベッドでみんな寄り添い一緒に寝ていたそうです。
しかもこの家は非常にお粗末なもので
雨が降ると100%全部屋が雨漏りで浸水し、防水シーツをかぶせて対策する以外に手はなかったと語っています。
雨が降った日は子供達はソファの上に集められ、おばさんは寝る事ができずに雨水に足がつかったまま立って過ごしていたそうです。
そしてこの家の家賃は180レアル
当時のレートで換算すると日本円で9000円くらいですね。
リシャルリソンは自らもお金を稼ぐべく、当時から商売もしていました。
サッカーの練習から帰ると従兄と一緒になり、近所にアイスキャンディーやお菓子を売っていたのです。
リシャルリソンは非常に口達者で、手ぶらで帰る事はなかったと言います。
少年時代リシャルリソンはというと、こんな話が聞けました
私が夫と喧嘩をしていると、シャルリーニョはお腹の中にいた子供に叫び声が聴こえないようにと、お腹にくっつき携帯電話で音楽を鳴らしてくれてたのよ。当時からなんてやさしい、愛情たっぷりの男の子だったわ。
アウジセイアおばさんのインタビュー
勉強があまり好きではなく、お風呂が嫌いな子でした。8歳と6歳の従兄弟たちが、リシャルリソンを毎日お風呂に入れる係りで、ストリートで裸足でボール遊びをして汚れた足を、彼らがゴシゴシと洗っていたのよ。アウディセイアさんと夫が仕事から帰ってくるまでは、従兄がリシャルリソンの面倒をみていました
当時の隣人のインタビュー
従兄とアウジセイア叔母さんと縄跳びをして遊んでいるリシャルリソン少年↓
恩人のアウジセイアおばさん
リシャルリソンが移り住んで生きた時、周りの人は懐疑的な目で見ていたそうで、ある人はチンピラとまで呼んでいました。
その事についてアウジセイア叔母さんはこのように語っています。
シャルリーニョがサッカー界で頭角を現し始めると、周りの人たちの、彼の見る目や話し方が変わってきたのよ。お世辞を言いながら近寄ってきた人もいたわ。この間その中の一人から「で、その子は本当にいい子なんですか?」とメールが送られてきて、ものすごく頭にきたわ。私は「彼の才能を疑ったことない」と答えたの。みんな私の育て方を認めないといけないわね
そんな恩人のアウジセイア叔母ですが
半年前に父親を亡くし、実は今月に乳がんである事が発覚したそうです。
リシャルリソンの心のよりどころである故に、おあばさんの容体が心配なところです。
あのうす汚れたシャルリーニョ少年は、私の家にやってきてちゃんとお風呂に入る事だけを学んだのね。私はあの子を愛してる。テレビで彼を見るたびに懐かしい気持ちになります。彼を長い間応援することができるように、神様、どうか私に生きる力と耐える力を与えてください
アウジセイアおばさんのインタビュー
父親のアントニオさんとアウジセイア叔母さん↓
アウジセイア叔母さんは当時はお手伝いさんとして働いていましたが、現在は料理人として弁当を作っています。
写真の赤のバイクはリシャルリソンがプレゼントしたもので、これを使って配達をしている。
さらにリシャルリソンは現在おばさんが住んでいる家のお金の工面もしてあげたそう
しっかりとお世話になったおばさんへ恩返ししていますね!
ちなみにこちらはリシャルリソンの祖母の家で、こちらもリシャルリソンがプレゼントしたもの↓
プロになるまで
2013年にReal Noroeste Capixabaに入団
翌2014年12月にアメリカMGに引き抜かれ下部組織に入団をします。
隣のミナスジェライス州にある名門で、元ブラジル代表フレッジを輩出した事でも有名なクラブです。
アメリカMGでは2年目にトップチームに昇格
9ゴール3アシストの活躍でチームのセリエA昇格に大きく貢献しました。
2014年、17歳の時のプレー映像が残っています。背番号11がリシャルリソンです。
18歳の頃のインタビュー映像↓
リシャルリソンの18歳の時のインタビューを見つけたので
— バモスアオブラジル (@camisa8BRASIL) November 26, 2022
将来は欧州でプレーしたいと語っている
Aos 18 anos, Richarlison contou que seu sonho era jogar na Europa. Agora sonho realizou e virou a protagonista do Brasil🇧🇷 pic.twitter.com/KLV89X3RSg
地元にプロサッカークラブを設立
こちらは余談になりますが、リシャルリソンがしっかりと故郷に還元しているエピソードを紹介します。
リシャルリソンは未だにブラジルに帰国した時は、頻繁に地元を訪れています。
そして2021年4月に同市初のプロサッカークラブとなるNova Venécia Futebol Clubeを設立させました。
父親アントニオさんが会長を務め、リシャルリソン自身はアンバサダーとなっています。
設立されたばかりにも関わらず、このチームすでにブラジルの全国選手権のセリエDを戦っており、今後のさらなる躍進に注目です。
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