キングカズこと三浦知良の父親である納谷宣雄氏のインタビュー動画があったのでご紹介します。
2019年2月にカズがブラジルのジャウー市から市民賞を受賞し、納谷さんが代表してセレモニーに出席するため街を訪れた際に収録されたものです。
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納屋さんが憧れるブラジル人サッカー選手
ブラジルサッカー界のアイドルは誰ですか?
1970年のワールドカップを観に行ってリベリーノが一番好きだった。
清水エスパルスで監督をやらないか呼んだんだ
カズはよく”東洋のガリンシャ”と呼ばれていましたが、ガリンシャについてはどうですか?
ガリンシャの事はもちろん知っているが、彼は自分よりももっと上の世代だからね。私がブラジルサッカーを見始めたのはペレ・リベリーノ世代からなんだ
ブラジルと日本サッカー
日本サッカー発展の為、ブラジルの何が最も大切でしたか?
サッカーで言えばブラジルという国は日本にとってとても重要な存在だった。日本サッカーがプロ化した時にたくさんの著名なブラジル人が日本で過ごしたんだ。選手だけでなく、監督やコーチ、フィジカルコーチも含めてね。Jリーグが始まった頃、我々はブラジルからとても多くの事を学んだ。ブラジルがなければ日本のサッカーは考えられなかったね。
当時ジュビロ磐田の前身であったヤンマー発動機がブラジル人選手の移籍のパイオニアとなりました。
日本リーグが発足した2年後の1967年に、チームはサンパウロ出身の日系2世のネルソン吉村を獲得
彼は日本に帰化し1970年~1978年まで日本代表としてプレーをしました。
続いて1977年にヴェルディ川崎の前身であった読売クラブがラモス・ルイを獲得
ラモスはチームの皇帝となり、1部昇格の立役者として活躍、多くのタイトルを獲得しました。
ラモスは1989年に帰化し1990年~1995年の間日本代表としてプレー
カズとコンビを組み1992年のアジアカップ制覇に大きく貢献しました。
キンゼデジャウーと清水
94年に清水FCはジャウーに遠征にやってきましたが、なぜ遠征先にキンゼデジャウーを選んだのでしょう?
なぜなら当時私はキンゼデジャウーの会長のPaumiro Guirro氏と親交があったんだ。会長だけでなく他のクラブ関係者とも親しくしていて、遠征に協力してもらったんだ。ジャウーを選んだ理由は人脈というところかな。更に言えば、当時ジャウーはいろいろとサッカーの活動が盛んな田舎町だったと思ったというのもあるね。
80年代のキンゼデジャウーの下部組織は無双していました。
83年はサンパウロで準優勝、更に85年のジュニアユースは決勝でパルメイラスを倒して大会優勝をしています。
当時のキンゼデジャウーから代表や州選抜に選ばれる選手も多くいました。
84年8月に清水FCは市誕生131年を記念しブラジルのジャウー市を訪れトーナメントを行いました。
なぜカズはキンゼデジャウーでプレーすることを選んだのか?
日本人選手の多くはサンパウロなどのビッグクラブへ留学しますが、カズはなぜキンゼデジャウーを選んだのでしょうか?選択肢はもっとあったと思いますが、何か特別な理由があったのですか?
カズはジャウーの前はジュヴェントスにいたんだが、サントスのような有名なクラブに行くよりは試合に出ることの方が大切だと考えた。レギュラーの座を掴むために競争できる環境、キンゼデジャウーが最適だと思ったからだ。
1985年の日本遠征
1985年8月にキンゼデジャウーのジュヴェニール(16歳~17歳)のチームは日本へ遠征に訪れ、様々な都市を渡り歩きました。カズもキンゼデジャウーの一員として遠征に参加しましたが、ブラジルチームのユニフォームを着て母国に凱旋することを誇りに思いましたか?
当時のカズの目標はあくまでもブラジルでプロになる事だったからね。ブラジルのチームの一員となろうが日本へ凱旋帰国しようがあまり関係のない事だね。本人もそれほど満足していなかったと思う。
当時のカズは既に日本サッカー界に影響力を持っていましたか?
カズと同じ道を辿りたいという若者は他にいたのでしょうか?
もちろん日本人の若者がブラジルのチームの一員として故郷へ凱旋し親善試合を行ったとテレビやラジオ、新聞で報道された。そして同年代の選手はカズに憧れて、同じようになりたいと思っていたと思う。しかしそれほど大げさなものではない。
キンゼデジャウー1985年 日本遠征日程 | |
8月8日 | 東京成田着 |
8月9日 | 福岡 佐賀選抜と試合 2-1 |
8月11日 | 熊本 熊本選抜と試合 2-0 |
8月12日 | 新幹線で広島へ 広島選抜と試合 2-0 |
8月15日 | 清水 試合後歓迎会 清水東高校と試合 1-0 |
8月16日~18日 | 藤枝でSBSカップ 東静岡選抜と試合 1-1 静岡北高校と試合 1-0 帝京高校と試合 4-1 |
8月19日 | 大阪 大阪選抜と試合 3-0 |
8月24日 | 米子 試合後アシックスの工場を見学 |
8月25日 | 鳥取 鳥取選抜と試合 2-1 |
8月26日 | 京都 |
8月29日 | 滋賀 滋賀選抜と試合 1-0 |
8月31日 | 徳島 船で移動。荒波に遭い選手ほぼ全員が船酔い 徳島選抜と試合 4-1 |
9月2日 | 筑波エキスポを見学後JALの便で帰国 |
一か月弱の日本滞在の中で11試合行い、成績は10勝1分23得点5失点
カズは2得点でした(徳島選抜戦、熊本選抜戦)
唯一の引き分けは東静岡選抜でしたが、この時にゴールを決めたのは武田修宏でした。そしてこの試合には中山雅史も出場しています。
85年キンゼデジャウーのユースが日本へ遠征に来た時の映像
35年前からブラジルの少年はコーナーキックからアウトサイドでシュートを狙っていた。静岡北の選手達のなんだありゃ?という顔が印象的
ジャウーはこの遠征で日本各地を回り11戦10勝1分。カズも遠征メンバーで2得点をマーク pic.twitter.com/uVxRjFj8po
— camisa8BRASIL (@camisa8BRASIL) September 22, 2020
カズのプロ初ゴール
カズは1988年にコリンチャンス戦でプロ初ゴールを決めました。これについては日本で反響はありましたか?
もちろん大きなインパクトがあったよ。俺自身はそんなに感じなかったけどカズ本人は非常に感激したと思う
日本でのキンゼデジャウーのユニフォーム
カズがゴールを決めた当時はキンゼデジャウーのユニフォームが日本でバカ売れしたと聞きましたが
これは本当ですか?それともちょっと盛っていますか?
当時はキンゼデジャウーなんてチームは日本では誰も知らなかったが、カズの活躍によって知られるようになった。当時高校で最強だった静岡学園がこれとそっくりのユニフォームを作って、今では青森山田もキンゼのユニフォームに似ている。日本中の高校が喜んでキンゼデジャウーと同じようなユニフォームをつくるようになったんだ。売れたというよりはそれだけ広まったということだね。
【三浦知良の実父、納谷宣雄氏のインタビュー】
納谷さんの話によると静岡学園のユニフォームはキンゼデジャウーがモデルになってるらしい。青森山田もそうらしいけど、ホントなのかな???まあ確かに似てるけど pic.twitter.com/TuJH6GFQY6— camisa8BRASIL (@camisa8BRASIL) September 22, 2020
シーバ監督
シーバ監督の存在は日本サッカーの発展にとって重要でしたか?
シーバ監督は私がヤマハ連れてきた。日本で初めてのブラジル人監督であった訳だからもちろん大きな影響があった。日本人選手は彼から練習方法や戦術など新しい事をたくさん吸収していった。そしてシーバはヤマハを優勝させたんだ。それからシーバが日本で成功したのをきっかけにブラジル人の監督やGKコーチらがたくさんくるようになったんだ。
シーバ(Chiva)とは本名Wilson Fernndo Rizatoで、80年代にキンゼデジャウーの下部組織の監督を務めていた人です。
シーバの指導の下、キンゼの選手たちは多くのタイトルを獲得し、多くの選手が代表などに呼ばれて行きました。
シーバは1984年にキンゼの会長らと来日し、サッカーの戦術などをレクチャしました。
無敗の遠征を果たした時の監督、この方ですね↓
1986年にシーバは1部リーグ残留が至上命題であったヤマハの監督に就任します。
シーバはAdilson、Andre、Belezaといったかつて共に仕事をしたことのある仲間も日本へ連れて行きました。
そしてシーバが監督に就任した87/88年シーズン、ヤマハは12勝10分で史上初となる無敗によるリーグ優勝を果たしたのです。
その後シーバは日本に残り、ヤマハの下部組織の育成にあたりました。
ジャウー市の清水FCの練習場建設計画
日本人はキンゼデジャウーがサンパウロの名門クラブであり続ける為に手厚く支援していたのですか?クラブには相当な投資をしましたね?
かつて清水FCがジャウー市にトレーニング施設を建設しようとしていたという資料があります。
静岡サッカー協会会長の堀田氏のアイデアでブラジルに拠点をつくり、そこで清水FCが毎年ブラジルへ来てキャンプをするという構想があったんだ。プロ化する前のアマチュア時代の話だったがね。今はもうそんな話はなくなってしまった。
当時の運営会社であるエスラップ・コミュニケーションズが主体となり、エスパルスの前身であった清水FCがブラジルに練習場を建設するという計画はあったそうです。
実際に30000㎡の土地を購入し、150人ほどの選手を収容できるプールなどを完備した施設をつくる予定であったとか。
カズの市民賞の剥奪について
カズがジャウー市から市民賞をもらった事について
1994年に彼は賞を受賞した後にはく奪されました。
これについて失望はありましたか?家族はどう受け止めましたか?
どう思ったかって?まあブラジルらしいなと
別にわれわれがそんなものを欲しいと言った訳じゃないので、全く気にしない
しかしその事実によってキンゼと日本の関係には影響はありましたか?
そんな事はない。まあ俺らがブラジルへ来なくなっただけの事じゃないか
1994年に市会議員のJose Carlos Zanatto氏により、カズへジャウー市民賞を与えようと動きがありました。
議案は満場一致で決定し、多くの日本のメディアが集まる中発表記者会見が開催されました。
カズも会見の場で10万ドルを練習場建設の為に寄付すると公言しました。
ところがその9カ月後、カズへ市民賞を与えようとしていたJose Carlos Zanatto氏が自らが市民賞取り消しの動きをとったのです。
その結果、賛成13、反対4により史上初となる市民への賞をはく奪される事態となりました。
この原因はどうも納谷さんにあったようです。
当初はキンゼでジャーの会長の要求で市民賞を与えるプロジェクトを立ち上げた。ところが後々になってこれはカズの父親、ブラジルのマスコミから告発されていた納谷さんのイメージを良くしようとする為だと気づいた。なので彼らとの協定を断ち切った。なぜなら三浦家はキンゼデジャウーに対して何もしていない、ただ我々のクラブの子供の枠を奪っていただけだから
当時Zanatto氏はこのように語っている。
この一件により、納谷さんはもうクラブへの支援はしないと表明
キンゼの会長もこんな事が起きなければ我々は毎年10万ドルの寄付を受け取ることができたのに、ととても残念がったといいます。
キンゼデジャウーとは?
最後に納谷さんやカズや日本サッカーにとって、キンゼデジャウーとはどのような存在ですか?
キンゼはカズを育てたクラブだ。家族や父親のような存在だ。
俺はキンゼが知良にしてくれたことにとても感謝してる。キンゼは我々家族にとって最も大切なクラブだ。最終的には知良にはキンゼで引退試合をやらせたいと思ってる。
それは納谷さんとカズの望みですか?
いや、俺だけがそう思ってるんだよ
もちろんその時はサンパウロサッカー協会に掛け合うけどね
ちなみに動画の中で通訳をやれている方は田路雅昭という方です。
この方はカナダの大学を卒業後サンパウロの旅行代理店で働いていたところを納谷さんに誘われ
以来一緒にお仕事をされているそうです。
田路さんはポルトガル語、フランス語、英語が堪能で、
カズがクロアチアのザグレブから京都サンガへ移籍した際はこの田路さんが代理人を務めました。
コメント
ジュビロ磐田の前身はヤマハ発動機で、ネルソン吉村がプレーしたのはヤンマーディーゼルですね。混ざってしまっています。