元パルメイラス、現在ガンバ大阪でプレーするレアンドロ・ペレイラさん
TV Torcedoresのインタビューで、松本山雅時代の反町監督との関係を語りました。
松本山雅という昇格したばかりの新しいチームへ加入した。適応するのは簡単なものではなく、難しものだった。なぜならサッカーのスタイルや監督の考え方が全く異なるんだ。松本の監督と話す機会を得たのだけど、一緒に仕事をしていくのは難しい人だったね。悪い人間という意味ではなく、仕事として、サッカーとしてね。日本のサッカーは90分間ずっとダイナミックなんだよ。参考までに言っとくと、私のGPSによる1試合の走行距離は10kmだ。CFでそんなに走るなんて驚きだよ。
当初は本当に難しかった。当時の監督は私にとにかく走る事を要求していたんだ。だが私はこのようなタイプのプレーには慣れていなかった。そこで彼は私を短時間しかプレーさせず、あまり起用しなかったと記憶している。そこである日の練習後に監督を掴まえて話をしたことがある。「私は日本へサッカーをプレーする為に来てるんだ。一生懸命やっている。けどあなたは私に試合に出場する機会を与えていない。一体どういう事ですか?私のしている事の何が間違っていますか?」。すると彼はこう答えた「つまり、ここではサッカーのスタイルが異なるんだ。我々はブラジルとは異なる方法で日々トレーニングに励んでいる。まずは君は、敵のボランチをマークしスペースを塞ぐ事をしなければならない。ゴールを決めるのは二の次だ」。彼にとっては、FWの私がゴールを決めるのは二の次で、第一に戦術的な動きを果たす事が大事だったのです。私が戦術的な動きを十分に果たせば、いつでもゴールを奪えるチャンスが生まれる、と考えていたようです。それはとても難しかった。なぜなら我々はまだ新しいチームで、それ程クオリティが高くなかったからね。そして6カ月が過ぎたが、私はとうとう適応することが出来ず、彼の指揮下で試合に出る事も出来なかった。
松本には6カ月間滞在したが、その後、私を獲得してくれた人はサンフレッチェ広島へ連れて行ってくれました。広島は私にオファーをくれたのです。彼は私がサンフレッチェ広島へ移籍した1カ月後に松本を去りました。日本ではみんな、自分の言葉に敬意を払い、大切にしている。だから彼は、私が日本サッカーに適応できないでいるのを見て「責任」を感じ、別のチャンスを与えざるを得なかったんでしょう。彼は私にこう言いました。「私が君を連れて来たのは、このような状況にする為ではない。私は君をブラジルで見た。君は良い選手である事を知っている。君のがどのようにプレーするのかはブラジルで見た。松本で試合に出れなかったのは、監督が複雑だったからだ。サンフレッチェへ行ってみないかい?広島の監督は君を気に入っていて、私も彼に君を紹介した」。「もちろん」と私は回答したよ。こうして最初の6カ月間はうまくプレーする事ができ、翌年にはJの得点王争いもできるようになったんだ。
レアンドロ・ペレイラは松本山雅時代にはわずか12試合2得点にとどまりまりましたが
翌年の広島では26試合15ゴールという活躍をしましたね。
それにしてもきちんとレアンドロの面倒をみてあげたスタッフもさすがです。
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