友人のFacebbokの投稿で知りました。
ヨコハマ・フットボール映画祭なるものが2月16日(土)、17日(日)に開催されるそうです。
当日はサッカー関係の映画をなんと14作品も上映するそうなのですが、上映作品の中に『カイザー!』がありました。
20数年に渡り一度もまともにプレーすることなく世界中のサッカークラブを渡り歩いた伝説のサッカー選手カルロス・カイザー。ブラジルサッカー史上最強の詐欺師の半生を描いたドキュメンタリー映画です。多分日本での上映は初です。
私自身長年ブラジルサッカーに関わってきたつもりでしたが、このカルロス・カイザーの存在を知ったのはつい最近でした。
世界まるみえとかでも紹介されてましたね。
このカイザーについて原語サイト翻訳して詳しく調べてみました。
1973年~1979年 ボタフォゴ下部組織
カイザーはブラジルの他の子供のようにストリートサッカーに興じ、10歳の頃にボタフォゴの監督の目にとまりスカウトされた。
しかしクラブの下部組織に入ったものの周りのレベルが高すぎて付いていくことができず。当時からサッカーよりも勉強の方がしたく、将来は体育教師を目指していたという。
10歳の時にボタフォゴでサッカーを始めたんだ。しかし周りに馴染むことができなかった。私はさらわれたも同然だった。昔ブラジルにはパス(選手を保持する権利)についてのルールがあったのだが、母親が私のパスを法外な移籍金を課してきた代理人へ売ってしまったことにより、嫌々チームからチームへと渡り歩かざるを得なかった。こうして全てが始まり、私は初めて契約をした。サッカー選手になるという夢を持っていたかって?私は勉強をしたかったんだ。学校に通いながらプレーを続けるNBAの選手のようなものだと思う。一つの事がきっかけでもう後戻りできなくなったのさ。母親は私にサッカーだけは続けて欲しかった。なぜなら私は10歳で既に金を稼ぎ家族を養っていたんだ。母親は私に暴力を振るい、とてもサッカーをしたくないとは言える状況ではなく、強制的にプレーをさせられていた。神様が私に与えてくれた望まない才能だった。
1979年~1981年 フラメンゴ下部組織~プエブラ~ボタフォゴ
ボタフォゴに入団して間もないこの頃から1974年にワールドカップで優勝したドイツのベッケンバウアーに似ていたことからカイザーと呼ばれるようになり、その噂はライバルチームへも広がった。ボタフォゴで6年プレーした後、強豪フラメンゴへのユースチーム入りを果たす。しかしリオデジャネイロのGáveaで練習している際にメキシコのプエブラいうチームのスカウトの目にとまり契約。僅か一か月でメキシコのプエブラへ移籍してしまった。16歳だった。
結局プエブラでの2年間で1試合も行わず、1981年ブラジルへ帰国し古巣のボタフォゴと契約。今度はユースではなくプロとしてだった。
なるべく相手チームの選手と衝突して問題を起こしたり退場しようとしてた。しかし練習は真面目に行っていたよ。誰よりも早く練習場に到着し、誰よりも遅く帰った。チームメイトとは揉め事は一切起こさなかった。
試合に出たくない。試合に出たくない。彼らは私をなんとしても試合に出させようとする。ある時リオのアメリカというチームにいた時に3ヶ月給料が支払われない時があったんだ。今はもうないがA Water Proofという時計メーカーがあって、私はオーナーのロジェリオ氏と知り合いだった。私はロジェリオ氏に「チームであなたのメーカーのもの全て使用しPRします。その代わりあなたは選手達の給料を払ってくれないか?」と提案し奴は本当に選手達の給料を払ってくれたんだ。もし誰かがチームを去らなくてはいけない状況の時に、チームは私を手放すと思うかい?私は給料の支払いが遅れていても文句を言わなかったし、私のおかげで問題が全て解決できたんだ。
1983年~1988年 インデペンディエンテ~アジャクシオ
1983年のカーニバルの夜にカイザーはレナト・ガウショと衝撃の出会いを果たす。場所はリオのナイトクラブだった。その日フラメンゴの選手を称えるイベントが行われていたが、なんとカイザーはレナト・ガウショに間違われてそのままパーティーの主役になってしまったのだ。代わりに後からナイトクラブに到着した本物のレナド・ガウショがエントランスでセキュリティに締め出されたことにより問題が発覚。それがきっかけとなりカイザーはレナト・ガウショのような有名な選手やスポーツジャーナリストとのコネクションを築いた。
彼らにうまく自分のことを宣伝してもらい、後にアルゼンチンのインデペンディエンテやフランスのアジャクシオ等のチームへの移籍を果たすことになる。
レナト・ガウショと一緒に写った写真↓
カイザーについて書かれた実際の新聞記事↓
86/87年シーズンにアジャクシオでセンターフォワードとして活躍し得点王となりチームを2部昇格へ導いた
その後アメリカのチームへ移籍するも契約の問題で試合に出場することはできず、更にはギリシャのオリンピアコスやパナシナイコスからオファーを貰っていると書いてある
1984年南米王者となったインデペンディエンテの一員になれたこともあった。その事に浮かれていたカイザーであったが、やはりそこでも1試合に出場することはなかった。
しかしフランスのアジャクシオの移籍の際は少し事情が違った。実はフランス3部に所属するアジャクシオへ移籍する前にカイザーはポルトガルのロウレターノというチームと合意間近と言われていたが、ある事情により急遽アジャクシオの本拠地であるコルシカ島にへ行くことに。そこでは生き残りの為に必死で練習をする必要があったようだ。
アジャクシオに入団した時、カイザーはピッチで公開練習が計画されていることに気付く。
人前でボールさばきを見せるのに慎重であったカイザーはこれはまずいと思い、グランドにあった全てのボールを観客席に蹴りユニフォームのエンブレムにキスをするパフォーマンスを見せたその場を乗り切った。
イベントに行く時にチームのユニフォームを渡す大事な役目は全て私であるように予め仕組んでおいたんだ。フランスで最も大きなスーパーマーケットである Hipermarchet Corsegは我々のスポンサーだったのだが、そうすることによって写真に写るは他の選手ではなく常に私となり宣伝効果は抜群だ。サッカーをやらない代わりに頭を使わなければならないんだね。
1987/1988 アジャクシオでプレーしていた頃のカイザーのプロサッカー選手としての労働手帳↓
1989年~ バング―
フランスで得た得点王という名声を得て、再びブラジルへ帰国しバング―というチームへ移籍する。そのバング―のチームのオーナーは違法賭博とのコネクションがあり当時ブラジルで最も恐れられていた男カストロ(Castor de Andrade)氏であった。
カイザーが試合に出場しないまま数カ月が経ったころ、カストロが監督のモイゼス(Moisés)にカイザーをチームに招集するよう強く要求した。
朝の4時だったな。その時私はCalígulaというリオのナイトクラブにいたんだが、当時は携帯電話がなかったのでね。元ヴァスコ選手であるモイゼス監督はナイトクラブへ電話をかけてきてこう言ったんだ。
”明日お前をベンチに入れなければらなない。お前を試合には出さないが必ず来てほしい”
そこで私は彼に言った。それはできない。朝の4時だよ。チームに合流できるのは昼の12時だ。試合は夕方4時からだろ?バング―はリオの中でも地獄のような熱さの場所だ。
結局私は試合開始5分後に到着したのだがその時チームは1-0で負けていた。さらに7分には2-0になった。そこでカストルはトランシーバーでカイザーを投入するよう指示を出した。監督はオーナーがお前に試合に出るよう指示している。と言い私にアップを命じたんだ。
とうとう試合に出ざるを得なくなり絶対絶命のピンチに陥ったカイザー
そこでカイザーはウォーミングアップ中にサポーターからのヤジを利用する。突然ベンチを飛び出し観客席へ乗り込み乱闘騒ぎを起こしたのだ。この作戦は成功しカイザーは暴力行為によりなんと試合に出場する前に退場処分になってしまった。しかし試合終了後当然のごとくカストロ氏はロッカールームまでやってきてカイザーへ説明を要求した。
驚くことにカイザーはこのピンチさえも乗り切りチームに留まるだけでなく、なんと給料アップも果たしてしまう。
ロッカールームのベンチに座っていたらカストロ氏がやってきた。彼が近づいてきた時に私は言ったんだ。
私の話を聞いてください。神様は私に父親を与えて下さったが亡くなってしまった。そして神様は私に再び父親(カストロ氏)をくださりました。私は父親が泥棒呼ばわりされるのが決して許せなかった。私の後ろでサポーターたちはあなたの事をそんな風にヤジっていたのですよ。
するとカストロ氏は私を抱きしめキスをし、なんと旅行へ招待してくれたんだ。更に給料2倍という条件で契約を6ヶ月延長したんだ。
私は無類の女好きだ。しかし酒もタバコもドラッグもやらない。人を騙したり盗みもやらない。周りから一緒に楽しもうと誘惑があったが私は飲みやドラッグには付き合わなかった。
サッカー選手は41歳で引退した。キャリアの中で90分間プレーしたのは20数試合かな?ゴール?15ゴールくらいはとったはずだ。最高でも30ゴールは決めているはず。全ては映画を見ればわかるよ
と自身のドキュメンタリー映画についてコメントしております。
『カイザー!』個人的にかなり興味深いです。
半年後くらいにDVDレンタルされるかな?
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