3月3日は神様ジーコの68回目の誕生日でした。
フラメンゴ最大のアイドルであるジーコ氏の誕生日を記念して10のエピソードが特集されていたので紹介いたします。
生い立ち
リオデジャネイロのQuintinoで生まれたジーコ少年は地元のJuventudeというフットサルクラブでサッカーを始めました。名門フラメンゴへは14歳で入団。きっかけは家族の友達であったラジオ局のセルソ・ガルシア氏(Celso Garcia)の推薦でした。セルソ・ガルシア氏はあるフットサルの大会に出場したジーコ少年のプレーに驚愕したと言います。その試合チームの総得点15ゴール中、ジーコが10ゴールを決めたそうです。
あだ名
ジーコというあだ名は幼少期にエルメリンダ・ロリンさん(Ermelinda Rolim)によって付けられました。この人はジーコの従妹です。そしてフラメンゴに入団すると、背が低くやせっぽちな体格からガリーニョ(Galinho=チキン)と呼ばれるようになったそうです。
クラシコの試合に背番号9でプロデビュー
1967年にフラメンゴの下部組織に入団。そして初めてトップチームにあがったのは1971年6月のことでした。この時ジーコ18歳で背番号は9。デビュー戦はなんとマラカナンで行われたヴァスコダガ戦で、マフレイタス・ソリチ監督(Freitas Solich)により右ウィングで起用され、見事2-1の勝利に貢献したそうです。
フラメンゴ時代は平均0.75ゴール/試合
18歳でデビューしたジーコ少年でしたが、その後フィジカルの強化に努めます。その甲斐あり、1971年~1983年の間に実に635試合に出場し476ゴールという驚異的な記録を残し、クラブの歴史にその名を刻みました。1981年にはリベルタドーレス杯を制しトヨタカップでも優勝、カンピオナートブラジレイロを制したのは1980年/1982年/1983年、またリオの州選手権では6度の優勝を果たしました。その後イタリアのウディネーゼへ400万ドルで移籍することになります。
フラメンゴへ復帰と大怪我
イタリアでは53試合30ゴールをマークしましたが、1985年の2ndシーズンにフラメンゴへ戻る事を決意しました。しかしその年の8月、フラメンゴサポーターの喜びは絶望へと変わってしまいました。対バングー戦で相手ボランチのマルシオ・ヌネス(Márcio Nunes)の凶悪なチャージを受け、両ひざと左足首を捻挫する負傷を負います。選手生命にも関わるほどの大けがでした。3度の手術を経て翌年にようやく復帰することができましたが、以前のようなプレースタイルは失われてしまったと言われています。
セレソンゴールランキング5位
ワールドカップこそ1度も制覇できなかったものの、ジーコはその名をセレソンの歴史に刻みました。1976年~1989年の間に71試合の公式戦に出場し48ゴールを記録。これはペレ(77ゴール)、ネイマール(64ゴール)、ロナウド(62ゴール)、ロマーリオ(55ゴール)に次ぐ5番目の数字です。
地球の裏側で英雄となる
1989年に一度引退しますが、1991年に現役復帰し日本でプレーをします。日本のサッカー普及の為の重要な役割を果たし、鹿島アントラーズにて3シーズンプレーしました。65試合48ゴール。以降ジーコは日本サッカー界から崇拝され、現在でも鹿島のテクニカルディレクターとして働いています。
ビーチサッカーに挑戦
再びサッカーを引退したジーコは、今度はビーチバレーに転向します。1995年~1996年でブラジル代表として41ゴール、世界選手権を2度、コパアメリカ、日本で行われた国際トーナメントなど多くのタイトルを獲得しました。
監督として
鹿島で3年間テクニカルディレクターを務めた後、1999年には監督としてのキャリアを開始します。2002年には日本代表監督に就任し、2006年のドイツW杯まで導きました。更には2011年~2012年にはイラクの代表監督を、他にフェネルバフチェ、CSKAモスクワ、オリンピアコス、FCゴア(インド)などのチームも率いました。
記録
華々しいキャリアの中でいくつもの記録を築いてきました。マラカナンスタジアムにおいて333ゴール、フラメンゴとフルミネンセのクラシコで19ゴール、2度の最優秀選手賞と5度の準最優秀選手賞と2度の得点王の受賞はプラカー誌史上最多、1979年には89ゴールを決め世界最多得点記録となりました。
という訳でジーコの10のエピソードを紹介しました。
まあ、ジーコのキャリアなど有名すぎて今更調べるほどではないのですが、今回記事を見てふむふむと思った事が2つあります。
1つはジーコというあだ名の事
ジーコの本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(Arthur Antunes Coimbra)です。コインブラという名前からわかる通り、ジーコはポルトガル系移民です。
そして日本のwikipediaでは愛称について、Zicoはやせっぽちの意味で~と書かれていますが、多分やせっぽっちという意味はもう一つのあだ名のGalinhoの方なんじゃないかな?
実際ポルトガル語のwikiの方にもこのように書いてます↓
E devido ao seu franzino corpo de início de carreira e de seu bairro de origem (Quintino), ganhou o carinhoso apelido de “Galinho de Quintino”
キャリア初期のほっそりとした体と、その出身地(Quintino)から親しみを込めて”Quintinoのガリーニョ”と呼ばれるようになった
じゃあzicoはどういう意味なのか?
これについては調べてみましたが正解は見つかりませんでした。もうちょっと勉強してみます。
もう一つ思った事は
フラメンゴからウディネーゼへ移籍した時の金額が400万ドルであったという事
1983年のレートは1ドル232円だったので、当時の日本円でおよそ9億2800万円だった事になります。さらにこの金額を令和2年と1983年の消費者物価指数で計算すると
102.3 ÷ 84.7 = 1.2 となり現在の価値は当時のおよそ1.2倍と考えると11億1136万円程度だったことが想像できます。まあもちろんいろんな要因があるのでこれが相当額であるとは一概には言えないですけど。ただそれだけです。
なんにせよ、他にもこういうブラジルの間違ったエピソードが紹介されている例ってあると思う。
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