鹿島ディエゴ・ピトゥカについてWIKIよりも詳しく

ディエゴピトゥカ wiki 未分類

鹿島アントラーズへ移籍したディエゴ・ピトゥカとはどのような選手なのか?
彼についてのインタビューや記事を読み漁ってみました。
wikipediaにも載っていないエピソードなどを紹介したいと思います。

ディエゴピトゥカ wiki

プロフィール

出身

1992年8月15日生まれ
ピトゥカはサンパウロ州の内陸部にあるモジ・グアスー(Mogi Guaçu)という町で生まれました。
人口約15万人の田舎町です。

ピトゥカというあだ名

ピトゥカの本名はディエゴ・クリスチアーノ・エヴァリスト(Diego Cristiano Evaristo)です。
実はピトゥカはあだ名なのです。
なぜピトゥカと呼ばれるようになったのか

ピトゥカと呼ばれるようになったのは、マトネンセへ行った時のことだね。チームと契約する時に父親が会長と話し合いをしたんだ。父はいつもピトゥカと呼ばれていたんだよ。すると会長も僕の事をピトゥカと呼ぶようになってね。けどそう呼ばれるのは好きじゃなかったんだよ。小さい頃、父親と外を歩いていると周りからピトゥキーニャ(小さいピトゥカ)と呼ばれていたんだ。そう呼ばれると帰って家で泣いていたよ笑。今では笑い話さ。今はピトゥカの前にジエゴを置いているからまあいいかな笑

父親のあだ名を受けついだようです。
ちなみに父親もピトゥカは本名である訳ではなく、本人もなぜそのように呼ばれるようになったのか不明らしい。

家族

2021年現在で3人家族。奥さんのリジアーナ(Lidiana)さんと、2019年に誕生した長女のマリア・アリス(Maria Alice)ちゃんがいます。

ピトゥカ家族

キャリア

ディエゴ・ピトゥカはサントスではスター選手でありましたが、これまで決してエリート街道を歩んで生きた訳ではありませんでした。下位リーグで着実に実績を積み重ねていくことにより、段々とカテゴリーを上げ、やがて名門サントスとの契約を勝ち取った、まさに這い上がりの選手なのです。

ジエゴ・ピトゥカのキャリアは下記の通りです。一つずつ解説していきます。

2010–2011 ミネイロス(Mineiros)
2011–2012 ブラシリス(Brasilis)
2012–2013 グアスサーノ(Guaçuano)
2013–2015 マトネンセ(Matonense)
2014  →  ユニオン・サン・ジョアン(União São João)
2015  →  ボタフォゴSP(Botafogo-SP)
2015–2017 ボタフォゴSP(Botafogo-SP)
2017–2021 サントス(Santos)
2021– 鹿島アントラーズ

アマチュア時代

プロ契約をする以前、少年時はアトレティコ・グアスアーノ(Atlético Guaçuano)やイタピレンセ(Itapirense)といったクラブでプレーしておりました。
アマチュア時代の生活について、クラブの寮で30人ほどの選手らと一緒に住み、お金がなかったので弁当を分け合っていたと語っています。給料の支払いはいつも遅れていて、1試合150レアルほどの収入。それでもゴールを決めれば、週末に恋人と過ごすのには十分だったとか。

アマチュア時代はパステウとか食べていたけど、プロになってから彼女をシュラスコへ連れていけるようになったんだ

プロデビューからサントス入団まで

そして2010年、18歳の時にゴイアス州にあるミネイロス(Mineiros)というクラブで初めてプロ契約を結びました。念願のプロ契約なるも、華やかな生活ではありませんでした。

チームの監督に連れて来られたんだが、当初給料は1200レアル貰えると聞いていたんだ。それで飛行機に乗って行ってみると実際は550レアルしか貰えなかった。しかも食事は先輩方が食べ終わるのを待ち、残り物しか食べれなかったり、先輩方のトイレ掃除をやらなくてちゃならならなくて、ここでの生活は最悪だったな。

約束していた話と違う!ブラジルではよくある出来事。後のサントスのスターは初のプロチームにて日本の部活動のような苦労をしていたようです。結局一度も試合に出場することはできなかったそう。

翌2011年、地元モジ・グアスーの隣の市アーグアス・デ・リンドーイア(Águas de Lindóia)という町を拠点にするブラシリス(Brasilis)と契約を結びました。州リーグで2部、全国リーグ4部のチームです。2011年5月7日に悲願のプロデビューを果たしますが、結果は1-0の敗北。皮肉にもその対戦相手は自身サッカーを始めて初めて所属したチーム、アトレティコ・グアスアーノでした。

ブラシーリスで定位置を確保すると、翌2012年1月11日に再びアトレティコ・グアスアーノでプレーするようになります。ここでプロとして初ゴールを記録しました。

グアスアーノで2シーズンを過ごした後、2013年4月にマトネンセへ移籍。ここも州リーグ2部、全国リーグ4部のチームで、カテゴリーは変わりません。

2014年5月28日、ユニオン・サン・ジョアンへレンタル移籍。州選手権2部を戦います。

ユニオン・サン・ジョアンは降格してしまったもの、ピトゥカの活躍は認められ、古巣のマトネンセへ戻る頃に、州の強豪チームボタフォゴSPとの契約の話が舞い込んできました。そして2015年5月19日、同クラブへレンタル移籍することに。ボタフォゴSPへの移籍がで転機となります。

移籍後、瞬く間にチームの中心選手となり、チームは全国リーグ4部で優勝、ピトゥカ自身も2018年まで契約延長することができました。

ボタフォゴでプレーできたことは、人生で最高の出来事のうちの一つだ。ボタフォゴでは僕のサッカーを最大限に表現することができた。

ピトゥカ ボタフォゴボタフォゴ時代のピトゥカ

サントスと契約

ボタフォゴSPでの2シーズンの活躍は多くのクラブの関心を誘いました。2016年2017年は多くのオファーを貰い、キャリア最高の年とジエゴ自身も語っています。そしてサントスからの契約の話が来た時、ピトゥカは迷わずこれにサインしました。運命の2017年5月29日、サントスと2021年までの契約を結びました。しかし当初は2軍でのスタート。ピトゥカはそこでも這い上がり、 ジャイール・ヴェントゥーラ新監督の元(Jair Ventura)2018年1月24日にトップチームに昇格しました。

ピトゥカにとってサントスは特別なクラブでした。それは自身が小さい頃から憧れていチームだったからです。きっかけは熱狂的なサントスファンであった叔父からサントスのユニフォームを貰った事だったそう。鹿島への移籍が決まり、サントスを離れる際のインタビューを見ても、相当なサントス愛が感じられます↓

鹿島へ移籍するジエゴ・ピトゥカ サントス愛について語る
鹿島アントラーズへの移籍が発表されたサントスのジエゴ・ピトゥカは、今サッカー選手としてのキャリアで最も大切な時期に差し掛かっている。またサントスでの最後の試合となるかもしれない。

鹿島アントラーズへ

21年3月に鹿島アントラーズへ移籍することになりますが、当初は、愛するサントスを離れるべきか?新しい環境で挑戦するか、を相当悩んだようです。
最終的に家族の存在が決め手となり、新天地での挑戦を決断しました。
詳しくはこちら↓

ディエゴ・ピトゥカ 鹿島移籍の決断について語る
鹿島へ移籍の期待のピトゥカさん。サントス愛が相当お強いようで 移籍の決めてとなったのは娘の存在が非常に大きかったようです。 サントスは鹿島へ移籍が決まっているピトゥカを日本へ出発するまでの間レンタルしようとしたがFIFAの罰金をくらうのであ...

エピソード

ポルトガル語版wikiにも載っていないディエゴ・ピトゥカの面白エピソードを紹介します。

一度サッカーを辞めて倉庫番として働く

サントスでの活躍により、一躍ブラジルでは知られる存在となったピトゥカですが
実は一度サッカーを辞めた事がある事はファンの間で有名なエピソードとなっております。

ブラシリスでプレーしていた時はとても順調だった。ある日、当時チームの会長だったオスカル(元ブラジル代表のDF)に部屋に呼ばれ、”お前をサントスのU20へ連れていく”と言われたんだ。そこで僕は何を思ったのか、”もうサッカーなんてやるもんか!”って言っちゃたんだよね。”お前はバカか?こんなチャンス他にないぞ!このチャンスを欲しいと思っているやつは山ほどいるんだぞ!”と言われたが”わかってる、もうサッカーはやならい”と答えたんだ。

自暴自棄になり、突然サッカー辞める宣言をしたピトゥカ
それからの生活は大きく変わり、なんと1カ月間の間、靴屋の倉庫番として働き始めました。

倉庫番の仕事は最悪だった。プロとしての収入がないから、いつも両親に頼ってたんだ。これにはムカついたよ。だって周りを見ると、友達はちゃんと働いて稼いで自立してるのに、自分は両親に依存しっぱなしだったのだから。

職場の前にカフェがあったんだけど、温められた食べ物が好きじゃなかったんだ。けど7時から22時まで働かなくちゃならなかったから、仕事の給料は全てcoxinhasに費やしてたんだ笑

coxinhas※ コシーニャ(coxinha)

サッカーに明け暮れていた少年時代

ピトゥカはブラジルのどこにでもいる、いわゆる典型的なサッカー少年でした。
サントス行きの話を断った際にピトゥカは、両親があれほど泣いた事は今まで見たことがなかったと語っています。そしてサッカーを辞めたピトゥカに両親が尋ねました。

サッカーをやらないんだったら、人生何をやるんだ?

この問いにピトゥカは答える事ができず、思い悩んだ末
”自分が小さい頃から唯一上手にできた事。それは”サッカーをすること”
と両親に打ち明け、再びサッカーに打ち込むようになったのだと言います。

子供の頃は足の裏がすり減るまでストリートサッカーをやっていて、よくサンダルをなくしてた。サンダルをゴール代わりにして、忘れてくるのさ。それで母親にはよく叩かれたたよ。母はいつも俺はサッカーばかりい夢中になって、ちっとも勉強をしたがらないって文句を言っていた。本当にその通りで、放っておいたら一日中サッカーをやっていたよ。

リベルタドーレス出場のあまりの嬉しさに恋人との指輪をなくす

ある日サントスのホームスタジアムで、念願のリベルタドーレスに出場する機会を得ました。そのことを母親に話した時は泣いて喜んだそうです。そして試合終了後、ピトゥカはあまりの嬉しさに、なんとピアスと指輪を全て外してどこかへやってしまったのだそうです。家に帰ると恋人から問い詰められ、真夜中のスタジアムへ取りに行きましたが閉まっていてどうにもならず、結局翌朝も見つかりませんでした。最終的には、有頂天になっていたあまりの失態、ということで彼女は納得してくれたそうです。

100試合出場記念にピッチでプロポーズ

2019年のブラジルリーグのホーム最終節、サントスVSフラメンゴの試合。この試合は記念すべきピトゥカのサントス100試合目のゲームでした。そしてこの試合前にピトゥカは恋人のリジアーナ(Lidiana)さんへ公開プロポーズを行ったのです。
記念ユニフォームにはQUER CASAR COMIGO?(WILL YOU MARRY ME?)と書かれている↓

ピトゥカ プロポーズ

試合も無事サントスが4-0で勝利しました。

 

 

コロナ問題等もあり4月になってようやく来日を果たせたディエゴ・ピトゥカ選手
これからJリーグでも、サントス時代のような活躍を見せて欲しいです。

最後におまけとして、↓はピトゥカが考えるベストイレブンだそう。

ディエゴピトゥカ ベストイレブン

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